完璧な指導者は現在もいるのか

指導者という言葉は、世代によってイメージが異なるのではないでしょうか。

現状の指導者は、情報が多いのである程度学習していなければバッシングをあびるケースもあります。

私が中学の頃に、実力よりも学年によって背番号が与えられていた地域もあったので、保護者からの圧力を教える人が受けることを子供ながらに体験し、それがいいのかは現在も決断の範囲だと考えています。

時代はいつであっても、指導者は選手のプレーばかりを考慮することが難しいことはありますが、練習内容や食事など完璧に解答をできる指導者はいるのでしょうか。

教えることが絶対だった過去の指導者の存在は、プロ選手の事実から発信される情報によっては、変化しつつあります。

 

もちろん、教える人の年齢などでそれらは変化します。
実際は、教えている内容と結論にあってそれがどのような結果になったことを評価できたかで考慮してもらえればいいのですが、現実はなかなか理想のようには行きません。

「完璧な」という言葉が出てきましたが、今もそのような人はいるのでしょうか。
教えることが絶対で完璧ではないにせよ、満足いくスポーツプレーヤーでいる青春をおくることができたのは、今はもう選択する内容が増えたためなかなか難しいかもしれません。

結局は現状で一番ではなくともベターな選択を迫られることになるのですが、指導する人は何かを捨てた上で選択することでしか、進むことできないのがどれほど綺麗事を並べても人が歩んできた事実でもあります。

 

私の高校時代の監督が、「監督は孤独だ」


と言っていたのが印象的だったのですが、結局はマネジメントする人はその立場になった時に得るために捨てることを前提に選択を迫られます。

「完璧な指導者」ということがない以上、恐怖における指導もある程度の寛容性と改善をもってある種の犠牲という形式で変化していくしないというのが現状といことを以前述べました。

このことから考えると、「完璧に教えることができる」というイメージと前提は逆に今後発展する化学の内容を加えにくくしてる楔なのかもしません。

 

 

「完璧な大人」「完璧な指導者」というイメージも今後私たちがどのように選択するかによります。
ただ、侍の切腹のイメージも現在のイメージになったのは豊臣秀吉備中高松城を攻めからという説であったり、学校の制度ができたのも明治期によるもので、日本人らしさも常に変化してきたことも事実です。
それであるならば「完璧な指導者」のイメージとはなんだったのでしょうか。

もちろん、監督の指示は組織上は絶対だと言うことも時には必要であってもそれが納得のいく選択であれば問題なく、たとえミスがあったとしても後悔し、それによって改善していくことの方が現実的であったりもします。

 

 

手に取ったものは、リスクなのか、手段なのか、次への選択にする情報なのか、不安なのか、銀の斧か、金の斧か、鬼を退治する金棒なのかは、わかりません。

 

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桃太郎や金太郎、浦島太郎が登場する携帯電話の動画だけを知っているおとぎ話を知らない子供は流石にいないかもしれませんが、この三人の仲が良いというのが今の子供の常識で30年後には銀の斧・金の斧を選んだ物語の世界の住人になっている未来だとした時、何をもって完璧なのでしょうか。

 

完璧も実は定義できていないことがある事実だとするなれば、基礎のプレーができるプレーヤーを教えることができる指導者は、選手の提案や許可などに対して選択の余地を受け入れる部分が発生することになることになりそうですが、どうでしょうか。


「今」という状態は物理学では、人が認識することができないという説明があります。
人が今を認識した時点で時系列上時間が進み、「今」と認識した時点でその今という時間は過去だからだそうです。

 

なにが言いたいのかといういうと、常に未来に対しての選択でしか人は生きてきてはいないのであれば、今も昔も改善の処理は変更されていなく、常に予測して改善を重ねて生きてきたということです。

であれば、短期的な今の最善の報酬も見方を変化させれば予測して得た未来なのです。

 

そして、今の報酬だけを選んだ現状維持も計画と改善と言えるでしょう。

ただ、変化するだけを求めるのは自分では難しいなと考えています。

完璧な指導者で利用されている言葉も結局のところ、完璧は言葉であって現在もまだ未完です。

常に責任を求められて、限界だけを求めらることにおいて現状は耐えれそうにないなということも含め、今後見つめ直す必要があるでしょう。

 

私が、野球でスポーツに怖さを利用されることそのものに疑問を持ち、15年近くが経ちます。
いまだにあの時代においては、調査や検証の結果、理想と現実をすり合わせても、多数派が時に利用することになるのだろうということは理解しています。
ハンナアレントにおける全体主義や、ルソーが残したエミールにおける内容、心理学おけるスキーマ、二要因理論、意識無意識へアプローチしたフロイトを含めて個人の反応によってどのような学習形態が望ましいのか考慮したとしても、今のシステムでは現状の内容を運用しなければならなく、その中に「完璧である指導者」のイメージが含まれて現状の立場になっているのではないかというのが私の持論です。

 

そして、責任感や指導することへの選手に対しての使命感はあれど、部分的な最善の完璧ではあっても、行動規範や人格を完璧に定義できる指導が現状の人で利用できることが実は完璧ではないと気づけたことに、これまでの歴史や知識の蓄積に敬意を示したい限りです。

これだけ時間を利用しても組織が運営されることにおいてスポーツにおける最適解ですら出ていないの現状だったりするのですが、スポーツの役割がビールを美味しく飲む場であることや、人生の一部として時として迷いそうなる他者を助ける一翼を担えることであって、八百長の材料にはならないことを願うばかりです。