文化と形容されるものの影響

「文化」という言葉はあります。
実際には、自分の意思が最大の優先順位の頂点に君臨しており、「文化」が選択の基準に及ぼす影響など微々たるものだと若い頃は考えていました。

ですが、実際「文化とは」を考えた時影響はかなり大きなものです。

詳細は以下を参考にしてみて下さい。

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方法次第では、文化という内容は人の選択の基準を基盤する良し悪しをさえ決めてしまう要因さえ持ちます。


ここで疑問に考えたかもしれませんが、スポーツと文化の問題の接点は把握して考え尽くしているのではないか、という点です。

自分たちが生きている社会の枠そのものは普段から体験しており、それを軸にして判断しているのだから文化とスポーツについての考えられる影響というのものの必要が考えられないというものです。

これは、私自身も言語化するまで意見程度に考えていましたが、成熟期と考えられている現在は無視できない状態です。

現状の選択基準において、個性を尊重する動きは徐々に浸透しており、高校野球の球数制限なども個人のスポーツ人生を長く見ての配慮になります。

この内容に、日本の文化的な側面と個性の尊重という内容が含まれつつありますが、モデルについての議論があまり存在していないことには疑問があります。

私たち自身がどのようなモデルを獲得したいのかという意見がないことはもちろんですが、
それを選択する基準そのものについてメリットとデメリットを語られていることが少ないのです。


自分の意見や個性の尺度の設定など、文化という事柄から考えると日本は組織に委ねる部分が大きいものでした。
「それは重い」「意識高すぎ」という主張があるのはもちろんいいのですが、事実的に直面している問題に対して、考えなくてもいいフローを利用していなければこれは成立しません。


行なっている動作や思考している内容が現実的に落とし込まれていないものは論外ですが、考えなくてもいいフローを運用してきた結果が現状です。
この問題は、「選択せよ」ではなく選択するためのデータが存在していないことにあります。


しかし、成長が止まった社会の背景やゆとりの導入からsnsの意見の交流など含めて、今までの運用プロセスに関する問題が様々に浮上しています。
残念ながら、過去の成長しない部分をいくら嘆いても過去に戻ることはできませんし、現状の価値観という選択を正しいとした以上は、新しい選択肢を選びそれに納得する内容を見出す他ないというのが現状です。


ただ、いくら個性を大切にする選択肢が文化の影響に受けるとして考えることが必要としながらも、組織の一員として身を委ねることも時に心地良い部分もあります。
これを完全な合理的なものが人でないのであれば、考えることをせずに行動し続ける側面も持つこともまた人なのだと実感するにはいささか都合が良すぎる解釈なのでしょうか。

いずれにしても、私たち自身が過去の体験によって得た内容を80年という平均寿命を元にした場合にその長さを維持できるほどの安定した社会でどのように自身の価値観と与えらた情報によって選択基準を変化させるかということを望むモデルから選択していく必要があります。
現実には、日本の価値基準そのものから得れるモデルというものが、存在しないことも含めて現実に落とし込んだ内容に関して、スポーツの立ち位置を含めて考えていくことが必要でしょう。

それが結果、ストレス解消であることも楽しむことのみであることでも問題ないですし、
個性の主張という変化から5教科が優先順位にされている進学へのアドバンテージを部分的にスポーツへ移行することでもいいでしょう。

もしスポーツの指導へ改善が見込まれる場合は、スポーツに関する思考の利用を変化させることになるので資格から指導方法まで着手することになります。
かなりの負荷とプロセスを変化することになりますが、実際的な問題への優先順位とどのようなモデルにしたいのかに現実的な落とし込みが必要です。

現状は、個性を大切にすることは意識されつつも結果と練習に関する内容はボランティアに近い指導者に委ねられています。
保護者の強い要望によって書類整理が増え、教えることへの時間が足りなくなる現状を考えると、暖かさがないと言って教材への簡略化が進まない現状には今までの言葉が無にされてしまうというのは過言ではありません。
実際に着手する問題はスポーツという課題なのかということもあり、教材に対する暖かみと子供へ接する暖かみ、保護者への対応(エビデンスを含めて)を比べることも含めて、「意識高すぎ」というセリフのCMが頭をよぎるのが昨今です。

 

結局はどこかで選択基準の変更をする他ないのですが、スポーツの物語が変わりゆく社会にでさえ希望を与える役割が変わっていないことに、ベーブルースが病気の子供のためにホームランを打った逸話が現在のプロの選手が同じように受け継いでいる今に敬意を示したい限りです。