チームにおける統制

チームにおける統制と態度の悪さについて教える側としては、教えるチームの統制を取れた方がいいものです。
そのため叱るという方法はとても有効に感じられやすいものです。

 

しかし、プレーヤーの態度の尺度を正す場合や気分が悪いために怒鳴るなどの強硬手段と区別がつきません。
選手が自主的に率先して行動する場合と恐怖を避けるために行動することも区別がつかないケースがほとんどです。


組織の統制のために叱ることも必要です。
暴力を利用していた時代は努力すればいい時代であればよかったので問題はありませんでした。
社会で生きていくためには、ある程度チームとのコミュニケーションを取れて計画された業務をこなすことで個人の生活が成立していた部分があったからです。
もちろん、継続することを忠実に実行することはかなり労力を必要とするため方向さえ間違えなければ相当な能力にさえなります。
ただ、検証と改善のフローが必要になることが経済が伸び悩んだために必要になったことは確かです。

そのため、「努力」自体の概念を変化する必要が出てきました。

しかし、これでは努力するはわかりません。

 

今度は当たり前のことを考えてみましょう。
スポーツに「考える」は本当に必要なのでしょうか。
考えなくとも勝てばいいということも間違いではないというのは私の持論です。

楽しむことがスポーツに必要ですし、苦しんでまでスポーツをする必要はありません。

また「考える」ことは必要だと色々なところで訴えてられているのですが、それを「考える」が考えられてないことも違和感があります。

 

それでも指導者の言うことを自分の行動へ変換して考えないとプレーは向上せず、プレーが向上しなければスポーツは面白くない

 

基本動作レベルまでは指導者によってある程度コントロールできますが、プレーの詳細度の概念が向上していくにはどこかのフェーズで選手自信が考えるフローへ移行することが必要になります。

 

組織が属している目的によって「考える」概念をどのように設定するかが必要なのです。

 

スポーツの組織の統制によく力を利用されていますが、スポーツをする動機が「技術の向上と組織の勝利」であれば力は必要がないでしょう。
殴るなどの制裁をするのであれば、試合に出さないや何かしらのペナルティを課せばいいので、もし力による統制をしているのであれば指導者の過去体験を継続しているにすぎないでしょう。


理想で現実のプレーヤーは態度を変えないどころか力による統制でなければエラーするということも言い分としてあるかもしれません。
もちろんその反論は必要なのかもしれませんが、脅威による思考停止よりも改善のプロセスの方が重要です。
過去に教えていただいた指導者で力による統制を利用している方もいましたが、練習が上達しない真面目な選手ほど効果がありませんでした。

もちろん例外と「真面目」のレベルによってこの内容は成立しません。
力による統制も実際の行動で言葉にしなければ、内容が異なります。

 

監督が教える内容の練習モデルを着実にこなしながら、理解の言語化とイメージの差でミスし生真面目だからこそ結果にならないというプレーヤーがいました。
遺伝子ではなく、指導者の伝え方や理解の過不足によって選手の向上が損なわれることは避けたいと考えながらも、現実は難しいなと考えます。
勝たなければならないという私立のスポーツ指導者の力によるチーム統制や、過去の方法を利用してしまうことも逆にそれは人らしさであり、急に変えろということは難しく現実として、誰かが犠牲になるモデルが必要だったりするのが現状だったりします。

 

それでも、半世紀のスパンから比べると力による統制が変化しつつある内容は希望だったりします。

 


チームにおける統制と態度の悪さの改善においては、感情を利用してチームを活性化することは必要ですが、それも使い所でどのようにケースで感情を排除した分析も利用し改善フローを用意するかが必要なのかもしれません。