「いずれわかる時期がくる」と無意識

意識と無意識という言葉があります。
この言葉は、多く理解されているかもしれません。

現状では科学的に未だ意識は厳密な定義がされいません。
ここでは意識を自分の意思によって注意できる範囲として扱うことにします。

意識と無意識を把握していても使うことができないから無駄ということを考えるかもしれません。
本当にそうなのでしょうか。
私たち自身が、無意識に「無意識を把握することは無駄」という処理をしていることになっているのかもしれません。


糖尿病の人が、糖分を控えるという問題の解決は多くの人が理解していることです。
しかし、無意識にその人が行動ベースに行っている糖分を控えるというプロセスを考慮しなくては、この問題は解決することは難しいでしょう。

 

そもそも、生活習慣病などの病気に解決策が、何かを控えるアドバイスで達成されているのであれば、生活習慣病というような名称で多くの人が知っているはずがないのです。
人の「〇〇を控える」という言葉の内容を細分化して、自分の行動ベースまで落としこむ必要があります。

これは、スポーツにおけるメンタルでも同じこと言えます。
特にスポーツは、運動を意識的な練習によって無意識へと習慣化する目的がほとんどです。
水泳であれば、水をかく腕の動きと入水角度における水への抵抗を減らす運動を意識から無意識へ変更させます。

サッカーでは、どうでしょうか。
ディフェンダーは、中盤からフォワードへのボールへのパスにどのように反応しているでしょうか。
攻撃パターンを把握し、フォーワードの動き出しを目線やパスをする選手のボールを蹴る角度からボールのスピード回転における靴先のわずかな差まで無意識に把握しオフサイドで他のディフェンダーと連携する処理が行われ、フォーワードへボール渡さないようにしています。

無意識も自分の中でパターンとして認識することで、介入することが可能な動作になるケースも存在しています。
私たち自身が無意識をどのように把握しているかは、さらに日常的な部分から考えてみましょう。
リモコンのボタンが押すのではなくスライドさせるような仕組みになっているとどうでしょうか。
ボタンという認識によって行動が処理化されているためにスライドさせるという動作は使いづらい人もいます。

もちろんこれらは、すべて自分が目的する方向へ変更するという意味ではありません。
時間をかけることでしか一度設定された行動を変更することは困難です。
私たち自身が無意識という処理は使えないのではなく、自動的な処理として利用し、さらにそれによって新たな問題へ取り組むための動作なのです。

 

感情も無意識の処理であり、それは子供時から触れた情報の内容という見方ができたりもします。
学校のシステムや大学までの学習内容の選択の幅を考慮した場合、私たち自身が現状の無意識における情報設計と無意識の社会モラルを常識として所持しそれが行動の指針となることが考えられます。

もし、ここで興味がなくなってしまったのあればそれはスポーツや自身の興味から外れて無意識に処理が働らいたことになるのかもしれません。
それは感情として面白くなくなったという判断なのかもしれません。

 

では、感情は遺伝子でそれ自体が設定変更できないものなのでしょうか。
しかし、私たちは知り得た情報でしか判断できないのではないでしょうか。
それは今後理解されることで無意識として向き合うには難しい段階なのかもしれません。
感情と同じようにスポーツも無意識における脳の自動化システムで支えられているのだとしたら、無意識には向き合う価値があるのでしょう。

 

特定の人物における「いずれわかる時期がくる」を理解するための判断基準が科学的根拠なのか、自分における体験ベースなのかという違いであるのであれば、自分が体験したことと無意識について、必要な部分について理解することが必要なのかもしれません。