常識は、みんな持っているという常識がもたらすもの

教えるときに自分と相手の常識が欠落していると困ったことになるという場面に出くわしたことはないでしょうか。
私は共通の常識がない前提でプレイヤーの動きから結果における状況を想定するようになってから苦労することがなくなったことを覚えています。

抽象的なので野球で考えて見ます。
練習方法について自分で改善する方法を持っている場合は、改善点や練習方法を与えるだけで効果のある改善を選手自身が導き出すケースもあります。
練習方法について自分で改善する方法を持っていない場合は、様々な視点について考慮する必要があります。
これは自身でどのように問題点をカテゴリー化するかなので以下参考にしてみてください。

 

sports-doit.hateblo.jp

いくつか例で考慮して見ます。

空腹の人に魚の釣り方を教えることと魚を与えることについてはどちらが望ましいのかという問いがあります。
この場合は前者の方が望ましいと考えること多いかもしれません。

 

 

しかし、魚の釣り方を教えることと魚を与えることにも様々な内容があります。

魚にも種別があって、釣り方を教えても参考にならないようなケースもあります。
船を持っていない人にカツオなどの遠洋系の魚の釣り方を教えても利用できません。
船でポイントまで行かなければそれは魚の釣り方を教えても利用できないこともあります。

このことは物理的な要因であり誰でも周知していることのように見えるかもしれません。
これは、「場所によって釣れる魚が違い、魚によって釣る仕組みが違う」という常識があって成立します。

では、一度言われたことをして練習によって改善したということであれば、そのプレイヤーに練習方法を教えるとどのようになるでしょうか。
練習方法の確認ばかりで自分の練習の概念を確認することは難しいものです。

もう少し具体的にして見ます。

 

 

野球のスウィングにおいてタイミングをとるために効果的だという練習方法があったとします。
しかし、そのスウィングの前提として自分自身のスウィング軌道に問題点があった場合、自分自身のスウィング軌道の問題点も解決しなければなりません。

この場合、スウィング軌道の問題の解決が船を所持していることであって、タイミングをとるための練習が魚の釣り方という見方もできます。

なにが言いたいのかというと、物理的な差も脳内で意識することのポイントも解決策という同じ見方が必要になります。
どんな当たり前のことで、目で見えることの物理要因でわかると理解されていても、その人自身によって問題を解決するフローが確立されていて、処理が一定となってい場合気がつくことが困難になりやすいということだったりします。

知識の蓄積として常識となっていることで気が付きにくいこともその人自身が改善策としてどのようなフローを所持しているのかがポイントとなります。

常識かどうかが問題ではなく、プレイヤーが処理として改善策を確立していない場合それは誰もが理解している物理要因でも知識であり意識的な部分で解決するとしても同じということです。

常識は教えることのコストを削減してはくれますが、解決するフローをブラックボックス化するという見方ができます。


大雑把な例ですが、いまでは猛毒の水銀も秦の始皇帝は薬として飲んでいたので所持している知識と行動における意識の接続のフローは思った以上に重要なのかもしれません。

 

以上、「常識は、みんな持っているという常識がもたらすもの」について考えたことでした。