「意識する」を「教えなければならなくなった」と「教えれるようになった」

私は、体験とイメージとテキストでしか現状を比較できないと考えています。

多くの人の悩みとして「そこまで教えないといけない」ということはどこでも聞くかもしれません。
これは、自身が教えずに学んだことを前提にしているから出てくる言葉ということが考えられます。

最近では、研究の成果や興味の高まりから「意識する」ことの重要性は色々な場所で語られます。

その内容をどのように考えるでしょうか。
スポーツで「意識する」という言葉に関しては注意することという意味合いが強いですが、それは細分化して言語化することについてどれだけしているでしょうか。


例えば野球で打つときにボールを意識して見るはどのような動作を示すでしょうか。

手から放たれたボールを見るという言葉を使うかもしれません。
最近では周辺視野を利用していることがわかり、「ボールを投げる肘付近」を注意して見るということも利用されています。

つまり、ボールというモーションの動きをどのように意識するのかという言語化をどこかで必要になるということになります。


「昔は教えなくても良かった」という言葉を聞くことがあるかもしれません。
このケースについては「教えずに学んだことを前提にしている」か「どこかで学習していた」ことになります。
様々なコンテンツがあり、自分で学ぶ機会というのは少なくなっています。
自分で学ぶフローが存在しており、それを実行する過程を獲得させることがどこかで必要かもしれませんが、
それを自分自身で学習することはコストになります。

効率的には、教えるコンテンツを用意してそこから学ぶことの方が考えることが少ない上、計算も少なくてすみます。

では、料理をするケースではガスコンロの使い方を自分で学ぶことはあるでしょうか。
学校や家の人が教えてくれますが、危険なため自分で学ぶこと少なく学習する過程をパッケージ化した方が効率的になるということは多くの人が理解できるのはないでしょうか。


極端な例ですが、「意識する」も同様です。
知識や情報量、危険度などの条件が異なるだけです。

スポーツでも、教えることのパッケージ化は必要ですが、自分自身で工夫して調整するということも必要になります。
そのために、自分自身で学習することについて概念を形成することも必要になります。


「意識する」を教えることができれば、それは他のスポーツからすると理解しやすく差別化になるのかもしれません。
「教えれるようになった」ことは化学的な部分でいえば、発展した結果とも捉えることができます。
昔ながらの指導もメリットはあるかもしれませんが、自分自身が楽しめるまでに簡単に学習できるようなスポーツの方が楽しめるという予想は、大方できるかもしれません。
その場合、スポーツの選択という部分で回答を多く持っている側の方が有利でしょう。

「教えなければならなくなった」は教える側のコストではありますが、それ自体はプレーヤーからしてみればポジティブな部分でもあります。
上達することについては、個人個人で楽しみ方は異なりますが「教えれるようになった」部分をうまく活用して、チームを強くすることを考えれる方が現状を前提とした時に好ましいのかもしれません。