教わることと独学の差

どこまでが独学でどこからが教わったことになるのでしょうか。

学校に行けば独学ではないというのが一般的な見解と考えることができそうですが、部分的には独学することも必要になります。
ここでは大学・専門学校以上の学校に行くことについて考えたことということを前提にします。

ある結果になる事柄を自分でアウトプットできるまでが学習の目的とします。
となると教わったことを自分でアウトプットできていない場合には、学校に行っていても価値がないということになります。
もちろん「学校行く」ということが評価されるのであれば別ですが、大学・専門学校のケースでは資格や能力が基準になることがほとんどだと考えています。(研究によるプレゼンテーションや自分の学習したケースを抽象化して社会で活用することは大学などで時間があるからできることだと考えます。)
学校で学んでも、それをどうやって仕事へ活かすことができるかをアウトプットする必要がどこかにあります。
もちろん、研究する分野などもありますが、一般の人ではほとんど主体とならないことがほとんどです。
大学の場合も自分で独学する期間であることは誰もが理解していることで、大学そのもの学問について正しいかどうかは、話がずれるのでここでは言及しません。

今回題材にしたいのは、部分的には独学することをどこかで学ぶ必要があるということです。

独学には検証と実行など含めるので研究する分野についても必要な要素はあると考えています。
最終的な部分では、教わることと独学していく比率は変化していくこともあります。
限定的に独学を自分で知り得た知識で実証と検証を繰り返して、自分の能力として利用できる状態にすることと定義できそうです。

スポーツの分野で細分化させた時、「教わったことができない」と悩むケースはあります。
以前このことは言葉の概念が異なるためと説明しましましたが、違った視点で考えてみます。
「教わったことを自分の能力にすること」は以下のフェーズで分けれます。

  • 課題化する
  • 実行するプランを作成する
  • 作成した内容を実行する
  • 実行した内容を検証
  • 再度課題化する

 

そんな難しいことを考える必要はないという意見が聞こえてきそうですね。
私自身もシンプルな方がいいと考え、あまり難しくすることは好みません。
ただ、このケースでは「練習する」を分解してあげる必要があります。

教わったことができていない場合分岐点は以下に分かれます。
「教わったことができない」
▪︎教わったことが間違っている。
▪︎教わったことの理解が間違っている。
▪︎教わったことの内容を再現できる能力が足りない。(遺伝レベルを含む)

この課題を解決するには幾つか方法があります。
教わったことが間違っているかどうかの確認は、自分で情報収集することが必須になります。
例えば野球でバッティングを教わりそれが正しいかどうかは自分でバッティングの情報収集を動画や本でする必要があります。
︎教わったことの理解が間違っているかどうかは自分で言葉の定義を細分化して理解していく必要があります。
水泳の自由形で腕で水をかくときに極力水中の抵抗を受けないようにするということについて考えてみます。
この場合腕のかき方ばかりを考えてしまいそうですが、前提に泳いでいる際の体幹の安定性などがあります。
また、足で膝を曲げて蹴らないなど全体的に無意識的な動作が幾つか含まれています。
つまり、「極力水中の抵抗を受けないようにする」という前提動作を自分で獲得しておく必要があります。
考えすぎはいけないのであれば、自分で無意識で動作できるようなチェックカテゴリーを持つことが必要になるでしょう。

再現できる能力が足りないことについては、自分の筋力レベルや柔軟性など練習を一定の期間実行する必要があるのでこの点はどこかで自分で定義することが好ましいです。

教わったことでも自分で検証して計画して実行することの繰り返しです。
「教わったこと」が他者なのか本なのかネットを利用した動画なのかは違うものでどこかで独学のような学習過程が必要になります。

結論として、独学の学習動作と教わって学習していく動作の差は客観的に指摘してもらえる他者の関与ということになりそうです。
そのほかの部分についてはあまり変わりがないのであれば、学校に行きさえすれば良いというのはあまり尊重できる意見とは言い難いものです。
自分で目的とする能力を得ることができたかどうかがポイントになりそうです。

 


以上、教わることと独学の差について考えたことでした。