コントロールできる意識とできない意識

意識的にわかっていることと無意識における行動の違いはどのようなものでしょうか。
これも個人によって異なります。
このことを考えたきっかけは望んだ結果には到達しないと考えて行動することと到達できるかもしれないと考えて行動することはにはどれほど違いがあるのかというものです。

具体的な例としては、プロテニスプレーヤーになれるかもしれないと考えて練習することとそれは無理だと考えて行動することにはどれほどの差が生まれるのかというものです。
可能性があると考えたときの集中力や練習への取り組み方は変化します。
これは誰もが予想のつくことですが、違う問題にも当てはまります。

例えば低所得者を0にすることは可能でしょうか。
おそらく高所得者という概念が存在する限り難しい問題です。
また、競争ということが義務付けられた世界で生きることを前提にした場合これは解決できない問題と言い切れるかもしれません。
(ベーシックインカムのような制度ができれば別かもしれませんが、低所得者がいることが悪い社会システムの是非ついての議論も必要になるでしょう。)
ここから考えたいことは、自分の努力で頑張ることができる範囲がおおよそ定義づけれてしまったとき、人の行動は制御されてしまうのではないかということです。
低所得者はある一定数なってしまうもので、それが自分だとわかったとき人は最低限の努力しかしなくなる可能性があります。


少し話が脱線しましたが、考えてもらいたいことはここから先になります。
できないとわかってしまっていても、できると思いこんで行動しなければならないケースがあるということがあるということです。
プロテニスプレーヤーのプレーを目にして自分の実力の差を痛感して、基礎能力の差がかなり大きいと理解できたとします。
プロテニスプレーヤーになれる可能性がかなり低い場合でも、全国大会で良い結果になる必要があるのであれば練習をする必要があります。
しかし、プロテニスプレーヤーになれると考えて練習していた時よりも、練習の質は悪くなる可能性は高くなるものでしょう。

働きアリの法則の法則で組織効率的なものの働かない人の存在について理解してしまうケースがあるとします。
これは、理解してしまった場合無意識に自分の行動を制御してしまう可能性があります。
できないとわかってしまっていても、できると思いこんで行動しなければならないケースになるでしょう。


ここで確認したいことは、何をもって価値となるのかということです。
プロテニスプレーヤーになることは難しいとわかっても、自分に有益にするにはどうすればいいのか考えることが必要です。
努力して結果になってきたことを、次に応用するために利用することができれば自分が区切りをつけたい部分までの努力する意味づけにはなるでしょう。
プロ選手になることの最大の価値は何か?という点で考えます。
・契約金がもらえる。
・有名になれる。
・テニスの技術を上げることができる。
などがあるとします。


それは、違う方法や目的で達成することができるのであれば、どのようにこれまでのことを利用するのかという点で考えた方がいいでしょう。

実現したい目的が不可能だとわかった場合、対処と確認することは必要です。
無理だとわかって実行することの方がリスクが高いのではないでしょうか。