生産性と練習による不安払拭


「練習をあれほどやったのだから負けるはずがない」という言葉は誰もが聞いたことがあるかもしれない。
試合で負けないためにメンタルの強化という意味で練習していることもあるだろう。
ゴルフであれば自分の得意なアプローチを試合で効果的なパフォーマンスにするために何度も入念に練習することだってある。
たとえ、それが原因で腕の関節を痛めてしまったとしても練習をしなかったことからの緊張によってミスするよりも後悔は少ないのかもしれない。
自分の納得のいく練習をすることがメンタル的にも安定してそれが一番良いのだろう。

だが、生産性という視点から考えると必要以上の練習は、パフォーマンスの低下につながる。
難しいのはこのライン引きだ。
自分の練習の成果が一番効果的な練習時間を理解しておかなければならないというのは効果測定について考慮する必要がある。
練習は嘘をつかないという言葉がある通り、いくら効果的に練習をしているからと言っても1日2時間程度の練習では、全国で勝つことは難しい。
私立などの強豪校などの多くが、通常の学生が勉強する時間を練習に使用している確率も高い。
圧倒的な量の練習は、質の高い練習を凌駕してしまうということもあるからだ。

さて、この議論については練習時間への価値観の問題をテーマにしているため、少し視点を変化させてみたい。
今までことから考えてみると人への練習効果は疲労と関連はしているけれども、メンタルの部分で補う部分が幅広く練習はするだけ効果があるというものになる。

精神的にメンタルの部分が、試合の結果に影響する部分は大きい。
だが、蓄積された疲労によって練習が意味をなさなくなる部分もある。
これらの前提から考えた時、試合で最高のパフォーマンスを発揮するにはどこまで練習すれば効果があるのか点を考える必要がある。

科学的に色々なことがわかってきつつある現在でも練習量の多い環境はどこにでもある。
休憩をこまめにすることで練習への効果などは上がってきつつある。
しかし、データは思ったほど少ない印象だ。
というのもこれまで練習を限界までしてきた昭和の時代から考慮すると1日における人の練習よる効果についてデータが普及していない。
このことは実はデータとして存在はしているけれども、確率的な部分も含めて私が探しきれていないだけかもしれない。

それでも野球では、海を越えた本場の国で球数を目安として投手の起用が行われている。
練習が原因で試合におけるパフォーマンス低下となるケースや怪我の防止のためだが日本ではまだ投げ込みによって練習している。
もちろん、どちらが良いかは価値観の問題に近く、議論よりも決断における要素がポイントだ。
高校野球の連投における美談のニーズから考えると球数制限がゲームのルールに加えられるのはまだ先の話かもしれない。

今回の内容はスポーツの練習における生産性についてだった。
これは練習における効果をいかに最大化するのかという視点で、仕事の効果をいかに最大化していくのかという思考の変化にもつながる。
具体化された例を抽象化して応用し、具体化することにあてはめる。
よく「ただやるだけの練習」と「意識する練習」は違うともいうが、指導者は練習の最後に少しだけ意識させるだけでも大きな違いになる。
社会でどのように使用するかをイメージさせる部分だけでも大きく違う。

例えば、野球の練習でタイミングをとる方法を個人で確立した。
自身の練習試合での打率を上げたことを監督に認められ、チームで情報共有した。
打撃練習でのヒット性の当たり数から練習試合での打率向上を考慮し、チームで全員がタイミングをとる方法を使用することになった。
これによって毎試合における得点率が、0.8点上がったとする。

あくまでうまくいったケースでしかないが、個人が方法論を確立し、マニュアル化した内容を社内情報として共有し利益を上げたことにつなぐことができる。
だが、これは評価されない場合もある。
会社の場合評価基準は組織で異なるからだ。

どこまで教えるのかは指導者によって異なるが、スポーツを利用して社会との接点を教えることはスポーツの価値を上げることができるだろう。
野球を例にしたが、野球はプレー人口が変化しサッカーよりも少なくなった。
どこにスポーツの付加価値を置くのかは各スポーツ種目それぞれだが、今後プレーヤーの獲得は人口減少が拍車となり難しくなるばかりだ。
スポーツのおける生産性の利用がスポーツの世界のみだけのものではなく、社会で利用できるものになればスポーツの価値は上がるだろう。
ただ、これは理想でしかない。
努力している指導の現場に生産性という言葉で考えるには抵抗を覚える。
このことこそ、生産性を低くしている原因の文化的な要素なのかもしれない。

 

また、練習における不安の払拭の代替案はメンタルトレーニングで可能にすることが科学的な進歩といえるのではないだろうか。
もちろん、無意識で動作するまで練習できなければ、勝つことが難しい競技もあり練習時間を短くすることが正義という意味ではない。
今のスポーツの世界は、明らかにやりすぎた練習で夢を諦めたアスリートの犠牲の上に成り立っているとも言える。
これが自分の知っていながらの選択なら後悔はないのかもしれないが、知識のない時点での行動は選択とは言い難い。
情報の認知によって少しでも満足のいくプレーヤーが増えることを願いたい。

 

 

以上、生産性と練習による不安払拭について考えたことでした。