PDCAサイクルが0から1を生み出せない場合。

簡単に述べるとPDCAサイクルの前提に関する内容だ。
PDCAサイクルは目的がはっきりしている場合に利用されることが多い。
行動の改善の場合だ。
PDCAサイクルと新しいものを生じる(つまり0から1を生み出す)発想の前提そのものは違っている。

0から1を生み出す場合必要になるのが、アイディアの数になる。
無数の点と点を繋げていくことで形にする。
例えば、バッティングで新しい打法を考える場合の思考について考えてみよう。
バットの位置、形の開き具合、骨盤の位置、スタンスなど複数のカテゴリーがバッティングの構えとして存在している。
ここからモデルとなるイメージを作ることは自身の記憶を利用することが多い。
仮に、バットの位置をバリーボンズ選手で、肩の開き具合をイチロー選手にしたりと言ったように組み合わせていく。
自身の記憶となっているイメージをそれぞれつなぎ合わせていく。
もちろん最初はバッティングフォームもバラバラでちぐはぐかもしれないがそこからPDCAサイクルを使用して修正していく。
課題の抽出方法そのものだけを考えるとブレインストーミング法が近いだろう。
新しい発想のフェーズそのものがPDCAサイクルを利用していないという言い方もできるだろう。
プランニング次第ではPDCAサイクルも新しいものを生み出す部分があるという見方もできる。
そのため、プランニングという言葉の定義によってPCDAサイクルが改善行動のみになる場合があるということになる。
これは人の情報処理の過程について考えることになりそうだ。
計画を立てる場合において個人によって思考フローが異なることは理解できていることだろう。
これについては職務設計などが関連してくる。
通常の職務における課題解決でどのようなプラン二ングをするのかという点が言葉の定義に関連してくる。
問題の解決モデルをどのカテゴリーレベルにまで細分化させるかという点がポイントだろう。
先ほどのバッティングで新しい打法を考えるということについて考えてほしい。
カテゴリーが複数存在し、それによってモデルの形成を変化させていたのが上記の例だった。
その例におけるカテゴリーを少なくして、1995年時点イチロー選手の振り子打法のみを採用するかどうかという点に変化させることもできる。
人の注意できるリソースには限界があると考えると問題解決までの期限がない場合に、新しい打法を考える時、カテゴリーを増やすことは望ましくないだろう。
注意の容量の限界は生体が一度に処理できる情報量に制限があるために生じるという見方がある。
注意のフィルターモデルがそのような考え方に立脚している。
注意の機能的な意味をどのように捉えるかについては現在も様々な角度から検討されており今後も着目したい。

問題解決における思考のパタンをシンプルなもので採用し続けるか複雑なものにするかの違いは習慣になると大きな差になっていることがある。
もちろん、これはどちらが良いかというよりも問題解決に使用できるリソースで使い分けることが望ましいだろう。

PDCAサイクルは、改善するために利用されることが多いのは、その思考モデルそのものが改善フローという前提にあるからかもしれない。
プロダクトの改善を得意する場合、PDCAサイクルにおける思考作業の連続が要求される。
このことが新しい発想とは別の思考フローであるならば、私たち自身が思考を利用するフローの変化が必要なる。
何が述べたいのかというと、0から1を生み出す思考フローと改善の思考フローが異なる場合において、意識する内容を明確化する方が好ましい。
あくまで検証することが必要になるが、考える内容をフロー化することには整理する作業が発生する。
これを意識化しないで、毎回同じ整理作業を行っていると時間が必要になる。
慣れによる作業スピードの向上を望むにしても時間がかかるだろう。
思考フローの意識化は脳内の思考処理速度を習慣化してスピードの向上を目的とする場合有効だ。


これらのことを考えると0~1を生み出す作業そのものには習慣と関連があり、日本人がイノベーションを生み出すことに苦手な要因の1つと見ることもできる。
理由は様々で、学校における学習の機会から文化的な部分から発生する習慣の違いなどが考えられるがこれは今後の研究の進展を待つしかなさそうだ。

PDCAサイクルが新しい発想を生み出さないという位置付けでならば、私たち自身が新しい発想を生み出す思考フローを明確にして利用するだけのことだ。
もし、PDCAサイクルに新しい発想を生み出すことを期待していたのならばプランニングの定義を再構築する必要がありそうだ。

以上、PDCAサイクルが0から1を生み出せない場合について考えたことでした。