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均一化する社会

食品の値段が物流の影響によって地方と都会ではあまり変わらない状態になっている。
さらに買い物もショッピングモールができたりといったことなどで、
ますます都会に住んでいても地方に住んでいても買えるものに差はなくなっている。
これはECによって差がなくなったというレベルからさらに上がったものかもしれない。

私が住んでいた鹿児島の田舎でさえ、すき屋マクドナルドがあった。
都会と地方の差について少し考えてみよう。
移動手段が車になるのが地方の生活の特徴になるだろう。
都会は、バス、電車で済むことが多い。
家賃が高い都心に比べて、地方は街から外れると安くなる。
働く時給についても同じようなものだろう。
看護などの資格がある専門職以外は都心から離れるほど給与が下がると考えることができる。

ここまではいろいろな本などで書かれていることが多い。
学校の教育の均一化は逆に難しくあるというのが現状にある。

教師における指導力の差はないものとして考えるとしても、将来の仕事で必要になる知識が地方と都会では未だ異なる部分がある。
何が違うのかというと働く会社で使用するスキルが異なるため、都心から離れれば離れるほどPCなどを使用することが少なくなる。
これは、会社基準で考えるのではなく、個人レベルのスキルで考えることが必要になる。
勤怠管理や給与関連で使用することになるPCだがそれ以上に使うことはなく、他の機能もうまく使用されていないことが現状だ。

地方と都心の差を少なくするものの1つとしてECがある。
ECなどはUIの改善などでユーザーに優しくはなっているものの、ネットショップはもっと増えてもいいのではないだろうか。
というのも検索しても、観光のページばかりだからだ。
これは人の行動特性に理由があるのかもしれない。

人は、短期的に問題がない場合は行動を変化することがない。
現状維持バイアスが働くことも理由の1つだ。
他の良い問題解決の方法があったとしても現状を維持することが楽だからだ。
むしろ変化させることの方が脅威に感じるケースがある。

これらのことを考えると地方の学校で習得することは、プログラミング教育の一歩手前にPCを簡易的に利用するマーケティング系の授業なのかもしれない。
プログラミング教育はレベルが高く、現実的に地方で需要のある教育とは言い難いのが現状だ。
つまり、変化へのハードルを低くするための体験がデザインされていないということだ。

気になるのは、なぜ食品などの物流おいて生活が豊かになるという手段が採用されたのかという点だ。
採用のフェーズは異なるとしてもECの採用は生活が豊かになるという手段となる。
では、地方の良い商品でECが活用されていない理由はなぜだろうか。
考えられるのは、PCが日常生活でユーザーの使っているものかどうかという点だろう。
当たり前だが食品は毎日使用するものになる。
だが、PCを毎日利用するかというと地方におけるPCの利用は都心と比較したときに差がある。
地方の電化量販店で売られているPCと都道府県庁所在地近くの電化量販店のPCの品揃えとスペックに差があることと同様だ。
(地方の人が考える購買チャンネルを検証する必要はある)

予測にはなるが地方はPCを利用する頻度が都心のユーザーよりも低いと考えられる。
ということでECの利用はPCを利用する活動領域を飛躍させる必要がある。

ECに限ったことではなく日常の生活で習慣から変化する必要があるというのは実はハードルが高い。
とすれば都心と地方の生活における需要の差を少なくすればECが利用される可能性が出てくる。
そのため、地方と都心の生活ニーズをどのように一致させるかという問題を解決することになるだろう。

だがこれは産業構造から考えると一致させることは現実的な問題解決とはならない。
とすればだ。
全ての都道府県でプログラミング教育をすることが好ましいとは限らないということにある。
興味の段階レベルから考えた時にプログラミング教育の何歩か手前のIT学習を用意することの方が現実的な可能性がある。

教育に話がずれたが社会はどこまで均一化するかという問いと向き合う必要があるのだろう。
そして社会が均一化する限界はもうすぐそこなのかもしれない。