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恐怖と指導の関係の考察。

sports 選択

恐怖は人の行動を変化させやすい。

そのためか恐怖が指導に使用される機会が多かった。
それは、人の神経回路が恐怖を避けることに長けており、そのことを利用したものだった。

恐怖に敏感な人は、危険なシグナルの問題を最優先に解決しようとする。
自分に何かしらの圧力がかかることを避けるためだ。
何が恐怖のシグナルを与えるきっかけになるのか条件反射的に対応できるプレイヤーもいる。
恐怖をセットにした指示に敏感に反応することで回避することになり、教える側としても都合が良くなってしまう。
人が慣れてしまう動物でもあるので定期的にチェックする必要はあるが、恐怖を使用することでプレイヤーの自発的な行動は抑制されてしまう。
(慣れにおける惰性への指導と恐怖を利用しての指導は微妙な差で議論が必要になりそうだ。)

指導の意味を理解して自発的に行動できるプレイヤーは、何かしらの圧力を受けない場合になる。
(圧力の影響を自己で対処しているか、指導側が配慮していることになる。)

しかし、プレイヤーが勘違いしてしまいやすいことがある。
恐怖や叱ることを回避する道具として、謙虚に似た悲観的さを所持してしまう場合がある。
私たちは、悲観的な部分と謙虚であることの区別をつける必要がある。
さらに楽観的とただ物事を軽視しての行動で失敗することも違うと理解することも必要だろう。
なぜ分けて考える必要があるのかというと恐怖に対して楽観的になる対処方が有効であるケースがあるからだ。

となるとここで疑問が生じる。
ある程度楽天的に物事を見る必要があるのであれば、恐怖に敏感になる機能はそこまで重要ではないのではないかという点だ。

これは、塩分を摂りすぎたからといって糖分をとっても丁度良い栄養摂取とならないことと同じだ。
生存することから考えた時、危険をより早く察知することの方が大切だということが理解しやすいかもしれない。
危険を察知する能力は生存することに有利になるため必要だったのだ。
何かに襲われるという危険が我々の先祖にあり、危機を察知しなければ命に関わることになりかねなかった。
だからこそ、人は幸福よりも危険に敏感になる必要があったのだろう。

ただ、これは一般的な社会の現象からすると気になる点がある。
変化を好み、挑戦することを美徳する社会は危険察知能力からすると矛盾するのではないかという点だ。
危険を回避した安全を選択したのならば危険をおかしてまで挑戦する必要はない。
ところがダーウィンの進化論のように、変化に対応するため人は現状のようになったと考えられる。

人はリスクに敏感ではあるものの、物事を実行する際には様々な失敗する恐怖を無視して挑戦することが設計されている。
いや、無視というよりも把握しつつ失敗したことを考慮した上で挑戦することを選ぶということになるだろう。
要するに恐怖による負の要素の出来事と、自分にとってポジティブな出来事のバランスこそが重要で、それがどちらかに偏ることは好ましくはない。

そしてそのことは物事の解釈で変化させることができる。

ただ、人の危機管理機能を利用してスポーツを指導することは好ましくないように感じる。
理想は、個人それぞれが自発的に行動し全体の目標を目指し行動していくことだからだ。
だが、全体的な指示を出す場合、個人それぞれに応じた指導には限界がある。
そのため、ボランティアに近くインセンティブの低い部活動の顧問は簡単な危機管理機能を利用した方法に頼ってしまったというのは過去の話だ。

もちろん、叱ることは危機管理機能を利用せず怒鳴らなくても可能であり、今後の進展はさらに必要になるだろう。
ただ、一部の理不尽な社会のようなならぬものはならぬということもどこかで知る必要がある。
全てを丁寧に教えることは難しく、決断と選択が必要になりそうだ。

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参考

脳科学は人格を変えられるか?

エレーヌ フォックス (著)

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