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努力ができること。

sports

努力の範囲とはどのようなものだろうか。
私たちがスポーツで選択する時に気にする条件はどのようなものだろうか。

・遺伝子における身体能力
・生まれた環境
・出来事による体験
・体験における内容の解釈

上記が気になる点だと考えられる。

私たちが決めることができない遺伝子の部分は発育発達における骨格、筋力に関連してくる。
生まれた環境は、自己で変化できる度合いが運によって変化する。
残り2つのことは努力で変化させることができる。
出来事の体験することとの中には、毎朝ダッシュをしたりすることや本を読んで学習することも含まれる。
そして、その体験などをどのように解釈するのかも努力で変化させることが可能だ。

この内容だけ考えると才能と言われる部分の影響が大きいように思えるが、実は私たちが遺伝子によって得た身体能力の他にも努力で変化させることができ、それは身体能力に匹敵するほど重要だ。

また、人は自助努力における行動の変化がなければ、行動の価値がなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。

生まれてから、自分の意思で行動を変化させてイメージした未来を得てこそ社会が機能している部分がある。

話がそれたが、努力の部分が毎日の連続で重なれば多くの時間を使用することになる。
だからこそ、努力の力は侮ることができないというのが、私の見解だ。

しかし、ここに落とし穴がある。
努力は必ずしも結果にならないという点だ。

身体能力が足りない場合か、セルフマネジメントに失敗した場合に努力が結果になりにくい状態が発生する。
(セルフマネジメントの中に指導者や環境の選択が含まれる場合もある。)

指導者と環境の選択については、ほぼ選ぶことが難しい状態であるため努力という点では補うには難しいかもしれない。

これは、マッチングサイトができればいいのかと言えばそうではない。
問題には「bukatsu」の存在等色々ある。

そうなると、自分のしているスポーツを自己の選択によって変化できているのかというと疑わしい部分がある。
もし、環境を選択することができないということであれば、努力で変化できる点は自主練習できる一部と体験をどのように解釈するのかという点、セルフマネジメントということになる。
多くの部活をしているプレイヤーにとっては、学業や仕事も存在しているので努力で変化できる部分は少ないのだろうか。

プレイヤーが練習できる時間は所属している学校に左右されてしまうが、授業時間や全体練習の時間を除くと個人でできる練習は本当に限られているように思える。

だが全体の練習を含め、本当に努力でできる点は、思った以上に少ないのだろうか。
いや、まだ個人が工夫できる部分がある。
自分がチームで行う練習において何を意識するかということがまだ残っている。

どのように練習を解釈して、何を意識するかという練習の効果は考えている以上に重要だろう。
例えば、野球の素振りの練習の場合に、ただ100本スウィングするプレイヤーと試合をイメージして100本スウィングするプレイヤーでは練習の質が異なる。

スポーツの練習における生産性が異なってくるのだ。
これは出来事をどのように解釈するのかという点に含まれる。
何を意識するのかということは考えている以上に重要で、才能のある人を努力した人が凌駕するという可能性の部分でもある。

スポーツをギャンブルにしないためにセルフマネジメントと努力することについて考える機会を私たちはどこかで所持した方が好ましいのかもしれない。