無意識に比較すること

私たちは無意識に比較することがある。
意識中にしか比較はできないという人もいるだろう。
もちろん70億人もいれば、意識中にしか比較しないという人もいるだろう。
ましてや大切な人の命なども比較しているとしたら、人として残念かもしれない。

次の内容について選ぶとしたらどちらだろうか。

自分の乗車している列車が暴走してしまった。
列車の通行先には、一人で線路上で作業している作業員がいる。
右に曲がることができるが、その先には5人の作業員がいる。
選ぶとしたらどちらだろうか。

5人よりも1人を選ぶかもしれない。
しかし、次の場合はどうだろうか。
駅で待っている状態で、暴走列車が駅の前を過ぎてしまう。

すぎると5人の作業員の命を奪ってしまう。
駅で1人を犠牲に突き落として止めることができるとしたら、あなたはどうするだろうか。

少し過激な質問になったが、何もしないという選択をする人を選ぶ人が増えるのではないだろうか。
この問題に最初の方では、1人の命を犠牲に5人の命を助けることを選んでも、後問題のように5人の命を犠牲にすることを選んでしまいやすい。

どのように回答するかはそれぞれだが、少なくとも無意識に私たちは命について比較し、その後自分の選択に間違いがないか検討したのではないだろうか。
この命を比較する問題は例であるが、それぞれが所持している情報をもとに選択をしている。

 

スポーツの選択も同じで私たちはコンテンツの面白さについても無意識に比較している。
サッカーであれば女子サッカーと男子のサッカーどちらの方を面白いと感じるだろうか。
ドリブルのスピード、シュートのスピード、スペースまでの走り込み、トラップのテクニック、選手の試合に対する思いなど、様々なカテゴリー要素を比較しているのではないだろうか。
そして、近年では道具の進歩や、メディアの取り上げられ方で障がい者スポーツの大きく見方も変化しつつある。
バスケットと車椅子バスケット、車椅子テニスとテニス、それに義足における陸上種目をプレーすることの論議は、科学の発展の賜物だろう。

義足に関わらず、科学の発展による規制について私たちは進んで取り組む方が好ましい。
発展における新たな取り決めの発生はいつの時代もあったからだ。
パラリンピックがこれからさらに盛り上がるには科学の発展における補助は必要になるだろう。
それは、私たちが無意識に比較し、面白いと感じるものが唯一無二の場合に、障害が
あるかどうか関係なく何かしらの数値がトップである必要が出てくる。
ある意味今後の科学の発展と障がい者スポーツの記録向上の注目する点と言えそうだ。