スポーツの価値変化について考えたこと。

価値を認めたものに対してお金を使用することは多くの人は理解している。

日本のスポーツでは場所を使用することについて価値を認めているものの、実際にスポーツを教えてもらうことについてはボランティアで行うことが望ましいと考えている。

ボランティアが望ましいと多くの人に受け入れられてしまったが厳密に正しいかもしれない。

(バブル期などの時にマネタイズに失敗したなども考えられる。)

しかし、その仕組みはひと昔前の指導が簡略化されたものだった頃に成立していた話ではないだろうか。

実際に丁寧に一人一人の選手に教えるのだとしたら、スポーツ指導の全体的な価値をあげることになる。
しかし、塾の月謝ほどの価値がスポーツの指導についてはなく、ボランティアが好まれている。

では私たちはスポーツをどのようなものにしたいのか。
この問いは、決断を妨げる脅威は何かから探す方がいいのかもしれない。

だとしたら私たちにとってスポーツが変化する脅威とはどのようなものだろうか。
考えられるものは以下がある。

スポーツをすることにお金が必要になり、スポーツをできなくなる場合。
お金の流れの変化からスポーツの仕組みが変化し、指導者の立場が変更する場合。
スポーツの価値が変化することそのものが今の美しいスポーツでなくしてしまう場合。

私たち自身が変化を嫌うのではなく、脅威を恐ると前提にした場合変化することそのものがスポーツの変化を止めているものではないだろう。
そうであれば、私たちは毎日の変化に何を求めた方が望ましい未来になるのだろうか。
スポーツをどのように使用したいのか決まらないまま毎日が進むのであれば美しさのみ追求されていくスポーツが現状のまま求められそうだ。
しかし、このモデルが使用されていたのが、バブルの頃より変化していないように感じるのは私だけだろうか。

文章からすると、その他にも良い使用方法があるように感じられるが、重要なのは決断だ。
どの事柄にもメリットデメリット存在することを考えての決断なら未来に後悔することはないのだと考える。