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肉体改造の限度

フォームの比較は、よく以前の良かった時期のフォームと比較される。
もちろん運動を獲得してから感覚的にも安定していることもあり、参考にできる部分はある。

重要なのはどこの部分を参考にするのかという点になる。
野球のピッチャーで考えてみよう。
ピッチャーの場合フォームを良いものだとして変化させた場合に、
運動獲得時とはバランスが悪いものになってしまうケースがある。

そこで多くの選手は過去のフォームに戻そうとする。
しかし、時間をかけて変化したフォームの癖はなかなか取り除くことが難しい。
過去のフォームを再採用した場合に自分がこれまでの挑戦したフォームによってついた癖を含めた運動になることがある。
そのため、過去のフォームを真似しても戻らないのだ。
過去のフォームに戻すには、どのようにして癖をなおすかという問題を解決した後で過去のフォームに戻すという作業が発生する。

スポーツおけるフィードバックで気をつける点は、目的までの自分との距離と現状の自分をどのように把握するかということにある。

ここで例とするのが肉体改造になる。
プロスポーツ選手における肉体改造は良い結果になっているケースが少ない。
今回このことを題材に考えてみる。
肉体改造によって筋力が強化された場合、変化することのないフォームを使用することが可能だろうか。
もし使用することが可能であれば、一度覚えた運動のフォームに筋力強化の限度が存在すると考える。
肉体改造などで強化する筋力の多くは、限度を超えたものであり、その場合運動を変更することになる。

結果を出せるフォームに関しては個人差がある。
筋力の柔らかさから肩関節や股関節の可動域、骨格などの体型など様々なものが要因となる。

一度獲得したフォームに限度が存在する場合、肉体改造において考えられる問題点は以下になる。
覚えた運動を消すことが可能か?
消してからの運動獲得はどのようになるのかという点だ。

もし獲得して運動を消す(忘れる)ことができないのならば、
大幅な肉体改造ができる限度は運動を獲得した時におおよそ決まってしまうことになる。
ここで言えばピッチングフォームを一度覚えてしまった場合、それを変化させることができない(部分的な場合も含める)として、
固定されたフォームには変化できる限度が発生している。
肉体改造における筋力強化はリスクがあるようだ。

もちろん、ボールのキレの安定性を保持することや体の柔軟性を上げることなどやることは他にもたくさんある。
日本人特有のフォームか骨格には筋力を増強するなどの肉体改造には限度があるのかもしれない。
ただし考えるべきは、「過剰な肉体改造」が日本人の体に合っているかどうかという点は考える必要があるのかもしれない。

以上、肉体改造の限度について考えたことでした。

環境に影響される意志。

www.nikkan-gendai.com

キューバの社会とアメリカの社会でどのような教育を受けるかという問題もある。
グローバル化という意味では、アメリカで教育を受けた方が良いとも考えることができる。

これは学習する環境を移動するという意味にもなる。

農業をするなら、高校から組織の仕組みを理解できる場所の方が好ましいだろう。
(つまり、JAから個人事業主の経営を知れる確率が上がる田舎の農林系の学校)
プログラミングをするならば、都心にいた方がまだ有利だ。
プログラミングに関しては、ネット上で教育を受けることができるために、今後変化する可能性はある。

しかし、プログラミングをする人が好む環境が未だ都心に依存しているように感じる。
(栄光欲に近いもので、プログラミングをすることが「カッコ良い」「すごい」といったことにつながること環境が都会にあるということだ。)


また、以前述べたが教員の数と生徒の数から考えると、都心で35人学級の場合と複式の7人程度の学級の場合は複式学級の方がむしろ教員が密接に指導できるように見える。

教員の数と教えられる子供数で教育の質を考えることができるのであれば複式学級を選択する人もいるだろう。

 

学習における他者の注意が対象者への意識へと関与しやすいことが選択の理由と考えられる。
何を意識するかが重要だという点はもう多くの人が理解している。

ところが自由意志での進路選択決定は思った以上に環境から制限されている可能性もある。
もし、身近な情報における刷り込みによって脳内の情報が整理されているのであれば、
私たちの将来は環境に依存していることになる。

実家が味噌を作り販売しているのであれば、嫌でも発酵などの知識にいて知る機会が多くなる。
これは生まれて成長する環境が人の進路に大きく影響しているとも言える。

また、関与する人も当然大きく影響する。
プログラミングの部分でふれたが栄光欲に関連するものだ。
これは、動機付けがなされやすいもので将来の進路を決定することは少なくない。
コンテンツがネット上に溢れている今勉強における学力の格差は少なくすることも可能だろう。
もちろん、信頼できる情報やどの動画を使うかなどの判断が難しい側面もある。
しかし、実際は格差社会の差は広がっていく傾向にある。
(年収と学力の関係において様々な議論があるものの、現状は年収と学力が関係していると考える。)
お金を学習塾などの習い事に使い学力が上がることに関して考えると、良い学習コンテンツだけがあるだけでは人は学習するとは限らない。
となるとだ。
周りに関与する大人や友達などの要因が学力の向上を大きく左右しているのではないかという仮説が生じる。

私たちは思った以上に自分が生活している環境に左右されやすい。
未来の子供たちのためにできることは、「伝える」ことはもちろん必要だ。
しかし、本当の意味で「伝える」ことがわかるには時間がかかる。
「伝わる」には「教育」の部分と「環境」の部分両方の関与が必要なのだろう。

以上、キューバの選手流出問題から考えたことでした。

実行と検証の体験のデザイン

指導者は、プレイヤーのPDCA体験をデザインする必要がある。

実行と検証の間には大きな溝があるため体験をデザインする必要があるのだ。
例えば太りすぎることは身体に良くない状態となることは多くの人が理解している。
ところが、運動不足や食べ過ぎなどの食生活が原因で糖尿病や血圧などの様々な問題に悩まされることもある。

油物を控えることや適度な運動をすることが良いとは誰もが理解していることだろう。
人だから言われたことを100%の確率で実行できるというわけではない。
だからこそ、指導者はプレイヤーとのコミュニケーションをとる必要がある。
コミュニケーションによってPDCA体験をデザインするのだ。
それでも自分の行動を制御できないケースがあるのだから、プレイヤーが行う動作そのものでもズレが生じるだろう。

指導者が言えばプレイヤーが100%指導者の考えた動作を実行できるわけではない。
指導者はプレイヤーの体験をデザインする必要があるのはこのためだ。
そこで必要になるのが、コーチングや科学、IT(デジタル領域)になるだろう。

言えば実行することは人の行動ではなく、ロボットのような見方になる。
指導者で言われたことがなぜできないのかということで悩む人がいるかもしれないが、
それがある部分では自然だろう。
むしろ、教える選手すべてが言われたことができてしまう設定となっていることの方が不自然である。
もちろん、走ることなどで簡単なこともあるかもしれない。
そして、集団をコントロールするためには時には厳しさも必要になることだろう。
これは理想論ではあるが、個人への指導が厳しさによって不適切なものになってしまってはならない。

しかし、言うだけで実行するというコミュニケーションを省いたことになってしまっては、
スポーツの価値が下がってしまう。
というのも、指導者が上司だとした時、プレイヤーとのコミュニケーションは就職活動で必要とされているものに近いからだ。

スポーツの価値を下げることも上げることも何を意識するかで変化する。
コミュニケーションが何かということについてかなり考える時間はあった。
トレンドとなっているコミュニケーション能力はかなり前から存在している。
便利に概念が変化するコミュニケーション能力とは利益最大化するために上司への最善の対応と言えなくもない。

だが、スポーツが言われて実行するだけのことから変化するには、
指導者による裁量が大きい。
プレイヤーの実行と検証における体験のデザインも指導者に委ねられている。
問題はたくさんあるが、今後変化し生産性が向上するコミュニケーションを期待したい。

 

以上、実行と検証の体験のデザインについて考えたことでした。

正しい情報と価値のある情報

タバコやお酒に溺れてしまうことやクレジットカードを使いこんでしまうなど、
これらに対して「危険だ」という信号はいくらでもある。
公的な組織からは、自分で寿命を短くすることは止めるように警告を促す情報を提供している。
それにもかかわらず人は、健康を害する行動をしてしまう。

健康に良いとされる食事にをとるために、毎日30種類以上の野菜を食べて何十回と咀嚼することが必要だ。
炭水化物・脂質・ビタミン・無機質・タンパク質をバランスよく自炊してとることも難しい場合もある。
自炊どころか、栄養を自分で考えて摂取することは稀でコンビニやスーパーの惣菜で済ませてしまうことの方が現実的だったりする。

これは、思った以上に深刻な問題なのだろうか。
現状で負荷のある医療費が将来さらなる医療費の増加となることも考えられる。

そのため健康志向となっている現在も注目されるべき課題でもある。
健康を考えたバランスの良い食事は、どんな製薬会社が作るよりも良いサプリメントだとするとこれは放ってはおけない問題だろう。

しかし、理想の話ばかりでは、目的を逆に達成し損ねる可能性がある。
制約で縛りすぎるとリバウンドのような状態になりかねない。
重要なのは自分のできる範囲のことで健康を保てるようにすることだったはずだ。

つまり、コンビニやスーパーの食品で健康を維持しやすいものを選ぶことが現実的な目標設定になるだろう。
また、そこからできることを増やしていくことで成功モデルができ、人の習慣を変更するきっかけになりやすくなる。

人は、正しい情報よりも自分を支持してくれる情報や解釈しやすい情報を選択する。
健康のために完璧に計算された食事を毎日用意していくよりも、コンビニで食べるものをどのように選ぶかということを変化させることの方が現実的な場合がある。
健康を考えてというが、結果として人は自分で出来そうだと判断するものを手にしやすい。

もちろん正しい情報のもとに選択している人もいる。
しかし、考えて欲しいのは正義感あふれた行動も、堕落して理想とは違う行動をする人もどちらも人だ。
ここで重要なのがマジョリティはどのように行動するのかという点だろう。

この内容から理解しなければならないのは、ユーザーの多くが好む情報が正しい情報でない時、検索エンジンが提供する情報が正しい情報でないケースが存在しているということにある。

これは、「正しい情報だけを検索させれば問題ない」ということではない。

もちろんそれができればいいのだが「正しい情報が何か」という問題は解決に難しい側面を持つ。
自分で判断基準を持ち、どこの情報を信じるかということを結論付けておくことが重要だと考えられる。

 

以上、正しい情報よりと価値のある情報について考えたことでした。

言葉の概念の違い。(ストーリー編)

言葉の概念の違い色々ば場所で起きています。

野球のバッティングのケース。


ここは、軟式野球チームの練習をしている場面です。
フリー打撃をしている途中になります。
さて以下のやり取りがあったとして考えてみましょう。

 

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カキーン(打球音)

監督「ストップ、Aのスウィングは下から出ていることが悪い。レベルスウィングするんだ。」

選手A「はい。こうですか?」
(スウィング軌道が地面と水平になるようにスウィングしてみる。)

監督「そうそれだ。」

監督「おい。BのスウィングはもっとダウンスウィングにしないとAよりも下からバットが出ているぞ。」

選手B「はい。」スウィングを修正してみる。
監督「OK

選手A(自分にはレベルスウィングでいいって言ってたけれどBにはダウンスウィングにってどうなっているんだ?)
(というか「プロの選手Cを真似をしろ」って監督は言って真似したのにどうしてレベルスウィングにされたんだ?
プロの選手でヒット打っている打撃ホームは、下から出ているスウィングだったけれどなぁ。
まぁレベルスウィングにしていれば、何も言われないし問題ないからいいか。)
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さて、問題なのはどうして「プロの選手Cを真似をしろ」と言っていた監督はAにはレベルスウィングのアドバイスをして、
Bにはダウンスウィングのアドバイスをしたのでしょうか。

監督がイメージしていたプロの選手Cのスウィングというのは、レベルスウィングだったということになるのでしょう。
ですが、選手Aは下からバットを出していたと指摘されました。

イメージや印象は個人によって異なります。
それを、自分の身体で再現するとなるとさらにイメージとのズレが生じます。
これによって、「プロの選手Cの真似をしたスウィング」ということは個人個人で意味が違ってきます。
つまり、監督・選手A・選手Bのそれぞれが考えるイメージと意味が異なってくるのです。


伝言ゲームで最後の最初の人と最後の人で言っている内容が異なることに似ています。

言葉の意味の解釈のズレと運動することにおけるズレが重なり、自分が実際に行うスウィングは、プロの選手Cの真似というよりもほぼ完全なオリジナルとなります。

監督は、イメージのズレがないようにプロの選手Cの動画を見せて指導しました。
(注意※プロの選手Cのスウィングのイメージは動画を参考にして共有化しているので個人個人のズレはないものとします。)

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(練習後)
選手B「監督、どうして同じプロの選手Cを真似したのに、Aと違ったことをさせたのですか?」
選手A「そう、それ自分も思いました。」

監督「それは、2人がプロの選手Cの真似をできてなかったから。
そもそも、選手にはレベルスウィングの参考にして欲しかったからね。」

選手B「じゃあ同じように、アドバイスすればよかったのではないですか?」
監督「二人のスウィングには差があったからだよ。下からスウィングしていると言っても違う下からのスウィングだったから。
Aはレベルスウィングの意識程度で丁度よかったけれども、Bはダウンスウィングで丁度よかったってことさ。」

「二人がイメージしているダウンスウィングもレベルスウィングも違うってことを覚えておいてほしい。」

選手A選手B「どういうことですか?」

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少しだけ、応用になります。
先ほど述べていたように、「プロの選手Cのスウィング」は個人でイメージが異なります。
動画を見せて修正したので、「プロの選手Cのスウィング」の差はなくなったかもしれませんが、ダウンスウィングやレベルスウィングは、イメージの共有をしていなかったために、差が生じています。
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監督「レベルスウィングでも2人がイメージしているものは違う内容だよね。」

選手A・B「?』

監督「あーわかった。レベルスウィングをしてみてって言っても2人とも同じスウィングはしないよね。
それぞれが思い思いのレベルスウィングをするはず。」
レベルスウィングでイメージする選手って誰かいる?」

選手A「プロ野球選手のD選手です。」
選手B「プロ野球選手のE選手です。」
監督「というようにイメージしているものが違うのであれば、スウィングも若干違ってきて当たり前だよね。
これはダウンスウィングも同じ。だから、ちょうど2人が打つためのスウィングになるようにアドバイスするにはどのスウィングがいいかって考えて違うことを伝えたのさ。わかったかな」

選手A・B「はい。」

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予想以上に物分かりのいい選手達ということは置いてといて、
言葉の意味はスポーツの指導でも重要です。
国語は思った以上に重要なのかもしれませんね。

以上、言葉の違いについて考えたケースシミュレーションでした。

既にあるスポーツコンテンツ。

スポーツで上達するための参考になる画像や動画は色々と存在している。
検索をしてみるとペタンクなど日本でマイナーなスポーツでも世界大会の動画は存在している。

それであれば、選手は無理にコンテンツを探す必要はないのではないか?という疑問を持つことになる。
日本でトップレベルのスポーツ動画さえあればある程度上達している選手からすると十分なのではないかという意見もあるだろう。

ところがそれだけでは不十分な点がある。
以下の判断が必要になるからだ。
・対象の動画が参考になるかどうか。
・プレーヤーのレベルで対象となる動画を参考にすることが可能か。
・参考にしたプレーの再現性はどのくらいか客観的な判断できるか。

上記の内容を補うには、指導してくれるパートナーが必要になる。
もちろん、個人練習などで動画を使用することは可能だ。
ただし、参考時には動画が参考にする基準点が必要で、例としては次の点だ。

大会の動画であれば、どのレベルのものか?(世界大会、日本大会、地方の大会)
動画内で指導内容を述べているのだとしたら、どのような内容か?
ー指導内容を述べている人の実績はどの程度か。(プレイヤーとしてか監督としてか。)
動画の内容の結果はどのようなものか?
ー結果から述べている内容が理論的に理解が可能か?
数値化された明確な基準が存在しているか。
(数値に等しい理解しやすい基準が存在しているか)

ITの技術や有効な動画情報が存在していることを考えると、あとはどのように仕組化し情報を編集して届けるのかという問題になってくる。
提供することのシステムがどのように構築されるかという問題もあり、指導におけるコンテンツ化は思った以上に課題が多そうだ。

現状でも、指導者によって動画の提供するための編集をすることでコンテンツの提供をしていくことは可能だ。
だが、ボランティアで編集作業をするには時間が足りないという部分がある。
さらに指導者個人個人で作業をするには参考になる動画を探すために認知的な負荷がかかり、情報を提供しないということもある。
もし、この場合に信頼できる組織から情報(動画などのコンテンツ)が提供されていればどうだろうか。


コンテンツの提供は公的な組織の課題でもあるように感じられる。
というのもインターネットの情報提供における検索の上位には、アフィリエイト目的とされるサイトが多い。
もちろん、コンテンツがユーザーの目的を達成していれば問題ないが、中身のない情報であることもある。
努力しても報われない選手が検索した時に役に立たない情報が提供されるということは避けたい。
ITにおけるスポーツ動画のコンテンツ化によって、少しでも救われる選手がいることを願いたい。
それは指導者やスポーツ関連における組織に委ねられていると言っても過言ではないだろう。

思考をデザインすること。

スポーツをする中で学べることは限られている。
逆にスポーツで学ぶことを選べるということでもある。

これは思考をデザインすることでもある。

スポーツにおいては何かを意識してするかしないかという2つのパタンに分かれる。
意識する場合、以下の例で考えることができる。
スポーツを健康維持のために利用すること。
スポーツをビジネスの理解のために使用すること。
スポーツをメンタルトレーニングのために利用すること。

何に利用するかはそれぞれのマネジメントによるだろう。

重要なのは何をどのように解釈するかで私たちがするスポーツが変化するということにある。
例えば、あるCMで「スマホと大人になっていく世代は私たちが初めてだ」というセリフがあり初の体験という解釈をすることになる。
斬新で今の世代でしかない心に残る言葉だとも言える。

しかし、よく考えてみると
 「3Cと大人になる世代は私たちが初めてだ。」という言葉にもできる。
高度経済成長を体験した世代もまた初めてだった。

 私たちの生活する社会が、改善と生産を前提にあるため世界は日々変化していく。
 つまり、私たちは発展していく新しい初めての何かと共にある生活をしているという解釈ができたとしたら、「スマホと大人になっていく世代は私たちが初めてだ」という言葉は自然なセリフとなる。

ただ、CMで綺麗な人が革新的な技術と内容を述べている場合、印象は異なってくる。
印象値の話ではなく、解釈の問題という話なのでこの内容はここでは言及しない。

斬新で心に残りやすいCMのセリフも解釈によっては、何気ないワンフレーズに変化してしまう。

それは、スポーツも同じだ。
自分たちで計画してマネジメントし何を意識するかで、スポーツの体験は異なってくる。
計画の内容によって解釈することが変化するからだ。


何が言いたかったのかというとスポーツは意義のあるものではなく、
人の狙いと感情によって、スポーツは意義のあるものでも無駄なものにもできるということだ。

スポーツの向上は遺伝子に左右されることが多い。
だが、スポーツがどのように役立つかは個人差はあるものの、人の努力によって変化することができる。
先ほどのワンフレーズが解釈によって変化したように、今この瞬間から変化させることができるのである。

そして、スポーツを楽しむため適度に行うものなのか、学習するためのものかは個人の判断に委ねられるが、私たちは初めてスポーツにおける学習内容を選択できると意識する世代なのかもしれない。

スポーツが多くの人の努力によって意義のあるものになることを心から願っている。
そしてそれは、私たちの思考をデザインするというある一種の選択でもあるのだ。

以上、思考をデザインすることについて考えたことでした。

 

 

(※3C:昭和40年(1965)ごろ、家庭にそろっていれば理想的とされた三つの品物。カラーテレビ(color television)・クーラー(cooler)・自動車(car)のこと

参照:goo国語辞書