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意識してこそ役立つもの。

以前、スポーツ選手がPDCAサイクルにより技術を向上させているということを述べた。

それを無意識にすることと意識的にすることでは、効果が異なる。

トレーニング中に目的が意識されていない場合はトレーニングを行うだけになってしまう。
これと同じでPDCAサイクルを認知している場合としていない場合の改善のアクションは差が生じてくる。

この前提にあるのは、スポーツ技術の向上は意識しなくてもおおよその感覚で改善していくことが可能ということにある。
明確に言葉にしなくとも、改善行動ができてしまうということはどのようなことだろうか。

バッティングで考えてみよう。
バットが下から出ているということで今度は、バットをあげて振ってみるということでバットをレベルスウィングできる選手がいる。
しかし、バットあげるだけではボールを点でとらえるダウンスウィングになる選手もいる。
その場合言葉にすると以下になる。
バットの位置をあげてスウィング中はバットのヘッドが体の回転軸から90度よりも下がらないようにする。
(この時レベルスウィングについて確認しておけば、レベルスウィングをイメージさせるだけで余分な説明は不要になる。)

明確に言葉にしなくても改善できる選手は、PDCAサイクルなど知らなくても効率的に改善していくことができる。
これはスポーツで培ったものを仕事などで応用しようとした時に作業効率化において時間がかかるものになる。
さらに言えば、自分を分析して改善する習慣がある人と感覚でやっている人では大きな差になってしまうということもある。

スポーツをするにあたって意識できるものは限られているのでPDCAサイクルを意識するかどうかは選択する必要もあるだろう。
スポーツ選手が就職で有利になるということで利用したいのであれば、PDCAサイクルを意識する必要がどこかであるということだ。
これは PDCAサイクルでなくてもSWOT分析などをスポーツに利用している場合でも同じだ。

選手たちがビジネスで応用できるものを利用しているという知覚行為がどこかで発生する必要がある。

なぜPDCAサイクルを利用したのかというと、ビジネスで使っていることから、親近感がわきやすくなり、採用側へ共感されるものになりやすくなる。
スポーツが健康に役立つだけでなく、自分の立てた目標に全力を注ぐことによって、遺伝子による優劣だけで努力が無駄になることを防ぐという側面を持たすことができる。

これは、PDCAサイクルである必要はない。
SWOT分析でもよければ、KPI分析をスポーツに利用したということでもいいだろう。
ビジネスで利用されているものをスポーツで利用するストラテジーマネジメントに使用することが重要になる。

 

数字を含めた明確な効果についてはビジネスだけでなくスポーツの世界でも求められつつあるのだろう。

 

以上、意識してこそ役立つものについて考えたことでした。

ケースによって使用する限界。

「限界を自分で設定するな」という響きの良い言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。

この言葉が意味するものは、様々だ。
限界を自分で設定することで成長できたにもかかわらず、
途中の目的までの部分で終わらせてしまい、成長ができないためという解釈を私はしている。

ところが限界を知らずに設定する目標ほど実現可能かどうかわからない部分がある。

実現可能な目標設定は何度かの挑戦によって現実味を帯びてくる。
それが失敗という少し強めのスパイスによって目標の設定がうまくいきやすくなる。

確かに成長する機会があるのにも関わらず見逃してしまうというのはもったいないかもしれない。
自分のできる範囲のみでしか目標を設定しないというのは、成長志向が好まれる社会から逸脱しているように感じる。

しかし、限界を設定されていない目標の場合確実性を欠く。
仕事で確実に相手の満足を得る必要がある場合、自分のできることの限界を知っていることは必須になる。


限界について言えば設定していい局面とそうでない局面があるということになる。

また、ここで考えて欲しいのはもったいないから限界は設定しない方がいいという意見についてだ。
目的がないのにも関わらず、成長することを望んでも得られる結果は期待したものに足りない可能性もある。

国の経済のように停滞となりつつあるにも関わらず、斜め上の成長を目指そうとしていることに似ているかもしれない。
ここで言いたいのは、目的を意識した現実的な成長を目指すことが好ましいということであって、成長を望むことが悪いということではない。

というのも意識せずになんとなく頑張れば良い時代よりもモチベーションが保ちにくくなりつつある。
その背景は様々だ。
人口の減少、成長の停滞、経済への期待値の低下などあげていけばきりがない。

だとすればどのようにすることで成長意欲が湧くかということになる。
ここで使用できるのが現実的に達成可能な目標設定ということだ。
ただ、リスクばかりを考えすぎて成長しなさすぎるのは自分の身を危めてしまうことになる。

成長志向もリスク思考もいい面もあれば悪い面もある。
それはやはり使いどころなのだろう。

何を持って成長なのかということも考える必要があり、
限界の設定は、意識と目的の延長線上にありそうだ。

以上、限界について考えたことでした。

動画と検証方法

スポーツプレイヤーにとって憧れのスター選手の真似をしたことがあるのではないだろうか。

間合いや仕草なども重要だが、もっと重要なのは細部のチェックカテゴリーをどのように形成していくかになる。

例えば、野球の守備の時に打球のタイミングを合わせる動作がある。
スウィングしたバットがボールに当たる瞬間に少しジャンプしていることに気がつくだろうか。
このタイミングを合わせる動作には他のスポーツ競技でも共通している内容がある。

私が確認したトップ選手では、バドミントン、テニスなどもしていた。
つまり、何かに反応する時に人は共通した動作をすることが確認できた。

この一般化することが運動動作のコツになる。
テニスでは、サーブをする時にタイミングの合わせ方には個人差があるもののラケットとボールの当たる瞬間に軽くジャンプしている。

フェデラー選手がサーブする瞬間の錦織選手は軽くジャンプしていることを確認してほしい。

www.youtube.com



人が反応することには共通の動作があった。
野球に関して言えば真似をすることは、守備の一部だけを真似るということでは足りない。
真似るのであればモーションで真似る必要がある。

真似る要素の1つが腰の低さであったり、先ほど述べたタイミングを取る時に軽くジャンプをすることになる。

真似る努力をしている人は大勢いるかもしれない。
プロの選手の捕球体勢を一部分真似ることも確かに重要なことだ。
とくに高校野球などの練習などでは捕球体勢を維持する練習が多く見られる。


ここまでで理解できたかもしれないが、腰が低いということは打球を取るための条件の1つであって、努力して真似る部分は他にもたくさんある。

打球を捕球するため真似る目的の方向性に着目した時、打球をとるために真似ることは捕球体勢を維持することだけではないということだ。

 

「真似る」という言葉の意味は、個人によって異なる。
大切なのは、自分の目的が真似ることで達成されたのかという検証が必要になるということだ。

捕球体勢において真似て似ていても打球が捕れなければ、芸以外に使いものにならない。
もちろん芸にすることが目的ならばそれでいいのかもしれない。

プロの動画を見るときに考える1つは、検証プロセスをどのようにするのかということだ。
チェックするカテゴリーを自分ができていれば除くことが必要になる。

当たり前のことを言ってはいるが、捕球体勢ができている選手は多くても捕球体勢維持の練習が除かれないことがある。

練習らしい練習をすることが好ましいのかもしれないが、一度捕球体勢ができればあとはタイミングの問題になるため捕球体勢維持の練習はあまり好ましくないだろう。

捕球体制維持の練習はきつく罰ゲームに使用して、緊張感を発生させることが目的になっていることもある。
目的が達成されれば良いが、捕球することだけの目的ならばすべき練習は他に発生しているように感じる。

これを読んでいる方はプロの動画を見るときにどこに注目しているだろうか。
真似る時に検証チェックをするカテゴリーについて考える時間はあるだろうか。

私たちは一度つくりあげた自動認識システムによって、これらのチェックをおざなりにしやすい。
このことを前提にして真似るという練習行動を今一度確認してみてほしい。

 

以上、動画と検証方法について考えたことでした。

スポーツの指導とリソース

私たちは、すべてを把握し物事の良し悪しから決断して選択をしているように思える。
しかし、その内容はごく限られたものだ。

多くの判断は、一度考えたときに自動化されてしまいあまり考えることがなくなってしまうものだ。
一部を考えないことによって他の問題を考えることができるという利点がある。
自動化された部分はヒューリスティックを利用して判断していることが多いと考えられている。

この自動化する脳内のシステムは失敗する要因となることもあり、悪者になりやすい。
しかし、有効な部分もあり簡単に排除すべきかどうかは選択が必要になるだろう。
ヒューリスティックを利用して失敗したくないのであれば、時間をかけて定期的にチェックすることになるが、努力で改善できるかどうかという点から考える必要があるだろう。

そして前回述べたように恐怖における人の特性を利用した方が指導に有効という認識を持ちやすく、それがヒューリスティックのように自動化されてしまったと可能性がある。    

スポーツの指導で、注意レベルの恐怖認識システムを利用することは場合によっては必要なのだろう。
そこから目的や目標に応じてマネジメントし、事前に使用する厳しさから指導に必要な考え方、科学的な方法論などを知らせておくことが重要になる。

今後のスポーツの指導については、それぞれがゴール地点を持つことが必要になるだろう。
現状は、できる限りのことを精一杯行うことで良いとなっているがこの目標設定は、上限がないものだ。
現実的で実行可能な目標設定を空気などに任せることなく、監督やコーチが行うことになっていく。

やりたいことや実現させたいことは何か?ということを選手自身で明確にすることも必要だ。
定めるのは顧問の先生ではなく、チームの監督やコーチだ。

もし、適任の人が出来なければ(外部コーチなどを含む)先生が所持する権限を緩める必要がある。
業務の軽減化ということだ。
スポーツの強さの維持を指導する視点から考えた時、今以上に知識が備わり、情報の提供における質の向上が望まれる。
だが今後、スポーツの指導に時間を使用するのであればどこかのリソースを少なくすることが必要になる。

過去、学校の教員の業務が多くなかったことから出来た部活の顧問という業務は、科学的な指導方法の発展と社会の厳しさによって限界になりつつある。(保護者への対応などが増えていることからなどだ。)
1人の人間ができる作業リソースは限られているため、どこかの負荷を減らすことが今後発生するだろう。

このことから考えると私たちは「もっと良い指導」をやめる必要があり、目的に沿ってマネジメントする指導に転換する必要があるのかもしれない。

恐怖と指導の関係の考察。

恐怖は人の行動を変化させやすい。

そのためか恐怖が指導に使用される機会が多かった。
それは、人の神経回路が恐怖を避けることに長けており、そのことを利用したものだった。

恐怖に敏感な人は、危険なシグナルの問題を最優先に解決しようとする。
自分に何かしらの圧力がかかることを避けるためだ。
何が恐怖のシグナルを与えるきっかけになるのか条件反射的に対応できるプレイヤーもいる。
恐怖をセットにした指示に敏感に反応することで回避することになり、教える側としても都合が良くなってしまう。
人が慣れてしまう動物でもあるので定期的にチェックする必要はあるが、恐怖を使用することでプレイヤーの自発的な行動は抑制されてしまう。
(慣れにおける惰性への指導と恐怖を利用しての指導は微妙な差で議論が必要になりそうだ。)

指導の意味を理解して自発的に行動できるプレイヤーは、何かしらの圧力を受けない場合になる。
(圧力の影響を自己で対処しているか、指導側が配慮していることになる。)

しかし、プレイヤーが勘違いしてしまいやすいことがある。
恐怖や叱ることを回避する道具として、謙虚に似た悲観的さを所持してしまう場合がある。
私たちは、悲観的な部分と謙虚であることの区別をつける必要がある。
さらに楽観的とただ物事を軽視しての行動で失敗することも違うと理解することも必要だろう。
なぜ分けて考える必要があるのかというと恐怖に対して楽観的になる対処方が有効であるケースがあるからだ。

となるとここで疑問が生じる。
ある程度楽天的に物事を見る必要があるのであれば、恐怖に敏感になる機能はそこまで重要ではないのではないかという点だ。

これは、塩分を摂りすぎたからといって糖分をとっても丁度良い栄養摂取とならないことと同じだ。
生存することから考えた時、危険をより早く察知することの方が大切だということが理解しやすいかもしれない。
危険を察知する能力は生存することに有利になるため必要だったのだ。
何かに襲われるという危険が我々の先祖にあり、危機を察知しなければ命に関わることになりかねなかった。
だからこそ、人は幸福よりも危険に敏感になる必要があったのだろう。

ただ、これは一般的な社会の現象からすると気になる点がある。
変化を好み、挑戦することを美徳する社会は危険察知能力からすると矛盾するのではないかという点だ。
危険を回避した安全を選択したのならば危険をおかしてまで挑戦する必要はない。
ところがダーウィンの進化論のように、変化に対応するため人は現状のようになったと考えられる。

人はリスクに敏感ではあるものの、物事を実行する際には様々な失敗する恐怖を無視して挑戦することが設計されている。
いや、無視というよりも把握しつつ失敗したことを考慮した上で挑戦することを選ぶということになるだろう。
要するに恐怖による負の要素の出来事と、自分にとってポジティブな出来事のバランスこそが重要で、それがどちらかに偏ることは好ましくはない。

そしてそのことは物事の解釈で変化させることができる。

ただ、人の危機管理機能を利用してスポーツを指導することは好ましくないように感じる。
理想は、個人それぞれが自発的に行動し全体の目標を目指し行動していくことだからだ。
だが、全体的な指示を出す場合、個人それぞれに応じた指導には限界がある。
そのため、ボランティアに近くインセンティブの低い部活動の顧問は簡単な危機管理機能を利用した方法に頼ってしまったというのは過去の話だ。

もちろん、叱ることは危機管理機能を利用せず怒鳴らなくても可能であり、今後の進展はさらに必要になるだろう。
ただ、一部の理不尽な社会のようなならぬものはならぬということもどこかで知る必要がある。
全てを丁寧に教えることは難しく、決断と選択が必要になりそうだ。

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参考

脳科学は人格を変えられるか?

エレーヌ フォックス (著)

Amazon CAPTCHA

 

努力ができること。

努力の範囲とはどのようなものだろうか。
私たちがスポーツで選択する時に気にする条件はどのようなものだろうか。

・遺伝子における身体能力
・生まれた環境
・出来事による体験
・体験における内容の解釈

上記が気になる点だと考えられる。

私たちが決めることができない遺伝子の部分は発育発達における骨格、筋力に関連してくる。
生まれた環境は、自己で変化できる度合いが運によって変化する。
残り2つのことは努力で変化させることができる。
出来事の体験することとの中には、毎朝ダッシュをしたりすることや本を読んで学習することも含まれる。
そして、その体験などをどのように解釈するのかも努力で変化させることが可能だ。

この内容だけ考えると才能と言われる部分の影響が大きいように思えるが、実は私たちが遺伝子によって得た身体能力の他にも努力で変化させることができ、それは身体能力に匹敵するほど重要だ。

また、人は自助努力における行動の変化がなければ、行動の価値がなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。

生まれてから、自分の意思で行動を変化させてイメージした未来を得てこそ社会が機能している部分がある。

話がそれたが、努力の部分が毎日の連続で重なれば多くの時間を使用することになる。
だからこそ、努力の力は侮ることができないというのが、私の見解だ。

しかし、ここに落とし穴がある。
努力は必ずしも結果にならないという点だ。

身体能力が足りない場合か、セルフマネジメントに失敗した場合に努力が結果になりにくい状態が発生する。
(セルフマネジメントの中に指導者や環境の選択が含まれる場合もある。)

指導者と環境の選択については、ほぼ選ぶことが難しい状態であるため努力という点では補うには難しいかもしれない。

これは、マッチングサイトができればいいのかと言えばそうではない。
問題には「bukatsu」の存在等色々ある。

そうなると、自分のしているスポーツを自己の選択によって変化できているのかというと疑わしい部分がある。
もし、環境を選択することができないということであれば、努力で変化できる点は自主練習できる一部と体験をどのように解釈するのかという点、セルフマネジメントということになる。
多くの部活をしているプレイヤーにとっては、学業や仕事も存在しているので努力で変化できる部分は少ないのだろうか。

プレイヤーが練習できる時間は所属している学校に左右されてしまうが、授業時間や全体練習の時間を除くと個人でできる練習は本当に限られているように思える。

だが全体の練習を含め、本当に努力でできる点は、思った以上に少ないのだろうか。
いや、まだ個人が工夫できる部分がある。
自分がチームで行う練習において何を意識するかということがまだ残っている。

どのように練習を解釈して、何を意識するかという練習の効果は考えている以上に重要だろう。
例えば、野球の素振りの練習の場合に、ただ100本スウィングするプレイヤーと試合をイメージして100本スウィングするプレイヤーでは練習の質が異なる。

スポーツの練習における生産性が異なってくるのだ。
これは出来事をどのように解釈するのかという点に含まれる。
何を意識するのかということは考えている以上に重要で、才能のある人を努力した人が凌駕するという可能性の部分でもある。

スポーツをギャンブルにしないためにセルフマネジメントと努力することについて考える機会を私たちはどこかで所持した方が好ましいのかもしれない。

フィードバックのチェックについて

改善したり、新しいもの生み出すことについてフィードバックは必要になる。
多くの人は、反省しそこから改善することは重要だと感じているのではないだろうか。

しかし、自分のみで行うフィードバックについては確認できない部分もある。
フィードバックそのものについて色々なやり方がある。
ところがシンプルに理解できることについてのみ考えてみるとそうではない。

人が理解するという観点から考慮してみるのだ。
それから考えてみると以下のようになる。

フィードバックしたい出来事を自分で解釈する方法。
フィードバックしたい出来事を誰かが解釈してそれを聞く方法。
フィードバックしたい出来事を何かに記録して自分で解釈する方法。

シンプルに考えるとこれの中のどれかになる。
1番目の自分自身で全てフィードバックしていくというのは、手軽にできるものだがその分、自分の解釈に頼ってしまうことになる。
つまり、何が言いたいのかというと自分でできることには必ず限界があるということだ。
自分のみでのフィードバックについては、ほとんど死角が発生する。
これは解釈という自分のフィルターがある限り発生してしまうものであるため、常に発生するリスクとして考慮する方が好ましいだろう。

2番目は誰かにフィードバックする出来事を確認してもらうことになる。
これは、専門的な人からフィードバックしてもらうことが理想的だ。

3番目は、ビデオカメラや携帯電話を利用することが考えられ客観的に観察する方法としては最適だと考えられる。


理想的なのは、定期的にどこかで自分意外のフィードバック機能を使用することになるだろう。
自分で絶対に死角が発生しないという方は自分のみ確認することが望ましいのかもしれないが、その可能性はかなり低いだろう。

適切なフィードバックとは何かと考えた時、自己の観察が正確に行われていることが前提だ。
観察については、自己確認の限界を理解していることが重要であり、客観的に観察できる方法を吟味してみた。

なぜ自己の限界があるかというと、人の感覚は曖昧でもある。
野球のバットスウィングから考えてみる。

野球のレベルスウィングを目指して練習しているが、現在はダウンスウィングの状態だ。
レベルスウィングを意識して、少しアッパースウィングをイメージしてスウィングしてみるとしばらくの間レベルスウィングとなる。
だが、イメージの変更をしなければ体が慣れてしまいその後アッパースウィングになりやすくなる。

実際に自分が行動していることはイメージしていることと異なってしまうケースがある。
それが今回のスウィングのことだった。
自分が行動している時、常に自分の行動を見ること(確認する)はできない。

ものすごく当たり前のことだが、常に見て行動することができないため、イメージしている行動からギャップが生じてしまってもわかりにくくなってしまうのである。

日常の姿勢などでも同じことが言えるのではないだろうか。
良い姿勢を意識していても、普段の姿勢が悪い場合姿勢が崩れてしまっていることがある。
これは、両方の肩のバランスや骨盤の傾きなどの感覚が変化して、良い姿勢をイメージしてもそれが良い姿勢でなくなっていることがある。

つまり、当たり前のことの当たり前にするためには、その評価基準が適切であるか確認する必要がある。
それが今回のフィードバックの自己確認へとつながっていく。

思った以上に人は自分の行動を認識することが難しいのだ。