スポーツの指導とリソース

私たちは、すべてを把握し物事の良し悪しから決断して選択をしているように思える。
しかし、その内容はごく限られたものだ。

多くの判断は、一度考えたときに自動化されてしまいあまり考えることがなくなってしまうものだ。
一部を考えないことによって他の問題を考えることができるという利点がある。
自動化された部分はヒューリスティックを利用して判断していることが多いと考えられている。

この自動化する脳内のシステムは失敗する要因となることもあり、悪者になりやすい。
しかし、有効な部分もあり簡単に排除すべきかどうかは選択が必要になるだろう。
ヒューリスティックを利用して失敗したくないのであれば、時間をかけて定期的にチェックすることになるが、努力で改善できるかどうかという点から考える必要があるだろう。

そして前回述べたように恐怖における人の特性を利用した方が指導に有効という認識を持ちやすく、それがヒューリスティックのように自動化されてしまったと可能性がある。    

スポーツの指導で、注意レベルの恐怖認識システムを利用することは場合によっては必要なのだろう。
そこから目的や目標に応じてマネジメントし、事前に使用する厳しさから指導に必要な考え方、科学的な方法論などを知らせておくことが重要になる。

今後のスポーツの指導については、それぞれがゴール地点を持つことが必要になるだろう。
現状は、できる限りのことを精一杯行うことで良いとなっているがこの目標設定は、上限がないものだ。
現実的で実行可能な目標設定を空気などに任せることなく、監督やコーチが行うことになっていく。

やりたいことや実現させたいことは何か?ということを選手自身で明確にすることも必要だ。
定めるのは顧問の先生ではなく、チームの監督やコーチだ。

もし、適任の人が出来なければ(外部コーチなどを含む)先生が所持する権限を緩める必要がある。
業務の軽減化ということだ。
スポーツの強さの維持を指導する視点から考えた時、今以上に知識が備わり、情報の提供における質の向上が望まれる。
だが今後、スポーツの指導に時間を使用するのであればどこかのリソースを少なくすることが必要になる。

過去、学校の教員の業務が多くなかったことから出来た部活の顧問という業務は、科学的な指導方法の発展と社会の厳しさによって限界になりつつある。(保護者への対応などが増えていることからなどだ。)
1人の人間ができる作業リソースは限られているため、どこかの負荷を減らすことが今後発生するだろう。

このことから考えると私たちは「もっと良い指導」をやめる必要があり、目的に沿ってマネジメントする指導に転換する必要があるのかもしれない。

恐怖と指導の関係の考察。

恐怖は人の行動を変化させやすい。

そのためか恐怖が指導に使用される機会が多かった。
それは、人の神経回路が恐怖を避けることに長けており、そのことを利用したものだった。

恐怖に敏感な人は、危険なシグナルの問題を最優先に解決しようとする。
自分に何かしらの圧力がかかることを避けるためだ。
何が恐怖のシグナルを与えるきっかけになるのか条件反射的に対応できるプレイヤーもいる。
恐怖をセットにした指示に敏感に反応することで回避することになり、教える側としても都合が良くなってしまう。
人が慣れてしまう動物でもあるので定期的にチェックする必要はあるが、恐怖を使用することでプレイヤーの自発的な行動は抑制されてしまう。
(慣れにおける惰性への指導と恐怖を利用しての指導は微妙な差で議論が必要になりそうだ。)

指導の意味を理解して自発的に行動できるプレイヤーは、何かしらの圧力を受けない場合になる。
(圧力の影響を自己で対処しているか、指導側が配慮していることになる。)

しかし、プレイヤーが勘違いしてしまいやすいことがある。
恐怖や叱ることを回避する道具として、謙虚に似た悲観的さを所持してしまう場合がある。
私たちは、悲観的な部分と謙虚であることの区別をつける必要がある。
さらに楽観的とただ物事を軽視しての行動で失敗することも違うと理解することも必要だろう。
なぜ分けて考える必要があるのかというと恐怖に対して楽観的になる対処方が有効であるケースがあるからだ。

となるとここで疑問が生じる。
ある程度楽天的に物事を見る必要があるのであれば、恐怖に敏感になる機能はそこまで重要ではないのではないかという点だ。

これは、塩分を摂りすぎたからといって糖分をとっても丁度良い栄養摂取とならないことと同じだ。
生存することから考えた時、危険をより早く察知することの方が大切だということが理解しやすいかもしれない。
危険を察知する能力は生存することに有利になるため必要だったのだ。
何かに襲われるという危険が我々の先祖にあり、危機を察知しなければ命に関わることになりかねなかった。
だからこそ、人は幸福よりも危険に敏感になる必要があったのだろう。

ただ、これは一般的な社会の現象からすると気になる点がある。
変化を好み、挑戦することを美徳する社会は危険察知能力からすると矛盾するのではないかという点だ。
危険を回避した安全を選択したのならば危険をおかしてまで挑戦する必要はない。
ところがダーウィンの進化論のように、変化に対応するため人は現状のようになったと考えられる。

人はリスクに敏感ではあるものの、物事を実行する際には様々な失敗する恐怖を無視して挑戦することが設計されている。
いや、無視というよりも把握しつつ失敗したことを考慮した上で挑戦することを選ぶということになるだろう。
要するに恐怖による負の要素の出来事と、自分にとってポジティブな出来事のバランスこそが重要で、それがどちらかに偏ることは好ましくはない。

そしてそのことは物事の解釈で変化させることができる。

ただ、人の危機管理機能を利用してスポーツを指導することは好ましくないように感じる。
理想は、個人それぞれが自発的に行動し全体の目標を目指し行動していくことだからだ。
だが、全体的な指示を出す場合、個人それぞれに応じた指導には限界がある。
そのため、ボランティアに近くインセンティブの低い部活動の顧問は簡単な危機管理機能を利用した方法に頼ってしまったというのは過去の話だ。

もちろん、叱ることは危機管理機能を利用せず怒鳴らなくても可能であり、今後の進展はさらに必要になるだろう。
ただ、一部の理不尽な社会のようなならぬものはならぬということもどこかで知る必要がある。
全てを丁寧に教えることは難しく、決断と選択が必要になりそうだ。

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参考

脳科学は人格を変えられるか?

エレーヌ フォックス (著)

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努力ができること。

努力の範囲とはどのようなものだろうか。
私たちがスポーツで選択する時に気にする条件はどのようなものだろうか。

・遺伝子における身体能力
・生まれた環境
・出来事による体験
・体験における内容の解釈

上記が気になる点だと考えられる。

私たちが決めることができない遺伝子の部分は発育発達における骨格、筋力に関連してくる。
生まれた環境は、自己で変化できる度合いが運によって変化する。
残り2つのことは努力で変化させることができる。
出来事の体験することとの中には、毎朝ダッシュをしたりすることや本を読んで学習することも含まれる。
そして、その体験などをどのように解釈するのかも努力で変化させることが可能だ。

この内容だけ考えると才能と言われる部分の影響が大きいように思えるが、実は私たちが遺伝子によって得た身体能力の他にも努力で変化させることができ、それは身体能力に匹敵するほど重要だ。

また、人は自助努力における行動の変化がなければ、行動の価値がなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。

生まれてから、自分の意思で行動を変化させてイメージした未来を得てこそ社会が機能している部分がある。

話がそれたが、努力の部分が毎日の連続で重なれば多くの時間を使用することになる。
だからこそ、努力の力は侮ることができないというのが、私の見解だ。

しかし、ここに落とし穴がある。
努力は必ずしも結果にならないという点だ。

身体能力が足りない場合か、セルフマネジメントに失敗した場合に努力が結果になりにくい状態が発生する。
(セルフマネジメントの中に指導者や環境の選択が含まれる場合もある。)

指導者と環境の選択については、ほぼ選ぶことが難しい状態であるため努力という点では補うには難しいかもしれない。

これは、マッチングサイトができればいいのかと言えばそうではない。
問題には「bukatsu」の存在等色々ある。

そうなると、自分のしているスポーツを自己の選択によって変化できているのかというと疑わしい部分がある。
もし、環境を選択することができないということであれば、努力で変化できる点は自主練習できる一部と体験をどのように解釈するのかという点、セルフマネジメントということになる。
多くの部活をしているプレイヤーにとっては、学業や仕事も存在しているので努力で変化できる部分は少ないのだろうか。

プレイヤーが練習できる時間は所属している学校に左右されてしまうが、授業時間や全体練習の時間を除くと個人でできる練習は本当に限られているように思える。

だが全体の練習を含め、本当に努力でできる点は、思った以上に少ないのだろうか。
いや、まだ個人が工夫できる部分がある。
自分がチームで行う練習において何を意識するかということがまだ残っている。

どのように練習を解釈して、何を意識するかという練習の効果は考えている以上に重要だろう。
例えば、野球の素振りの練習の場合に、ただ100本スウィングするプレイヤーと試合をイメージして100本スウィングするプレイヤーでは練習の質が異なる。

スポーツの練習における生産性が異なってくるのだ。
これは出来事をどのように解釈するのかという点に含まれる。
何を意識するのかということは考えている以上に重要で、才能のある人を努力した人が凌駕するという可能性の部分でもある。

スポーツをギャンブルにしないためにセルフマネジメントと努力することについて考える機会を私たちはどこかで所持した方が好ましいのかもしれない。

フィードバックのチェックについて

改善したり、新しいもの生み出すことについてフィードバックは必要になる。
多くの人は、反省しそこから改善することは重要だと感じているのではないだろうか。

しかし、自分のみで行うフィードバックについては確認できない部分もある。
フィードバックそのものについて色々なやり方がある。
ところがシンプルに理解できることについてのみ考えてみるとそうではない。

人が理解するという観点から考慮してみるのだ。
それから考えてみると以下のようになる。

フィードバックしたい出来事を自分で解釈する方法。
フィードバックしたい出来事を誰かが解釈してそれを聞く方法。
フィードバックしたい出来事を何かに記録して自分で解釈する方法。

シンプルに考えるとこれの中のどれかになる。
1番目の自分自身で全てフィードバックしていくというのは、手軽にできるものだがその分、自分の解釈に頼ってしまうことになる。
つまり、何が言いたいのかというと自分でできることには必ず限界があるということだ。
自分のみでのフィードバックについては、ほとんど死角が発生する。
これは解釈という自分のフィルターがある限り発生してしまうものであるため、常に発生するリスクとして考慮する方が好ましいだろう。

2番目は誰かにフィードバックする出来事を確認してもらうことになる。
これは、専門的な人からフィードバックしてもらうことが理想的だ。

3番目は、ビデオカメラや携帯電話を利用することが考えられ客観的に観察する方法としては最適だと考えられる。


理想的なのは、定期的にどこかで自分意外のフィードバック機能を使用することになるだろう。
自分で絶対に死角が発生しないという方は自分のみ確認することが望ましいのかもしれないが、その可能性はかなり低いだろう。

適切なフィードバックとは何かと考えた時、自己の観察が正確に行われていることが前提だ。
観察については、自己確認の限界を理解していることが重要であり、客観的に観察できる方法を吟味してみた。

なぜ自己の限界があるかというと、人の感覚は曖昧でもある。
野球のバットスウィングから考えてみる。

野球のレベルスウィングを目指して練習しているが、現在はダウンスウィングの状態だ。
レベルスウィングを意識して、少しアッパースウィングをイメージしてスウィングしてみるとしばらくの間レベルスウィングとなる。
だが、イメージの変更をしなければ体が慣れてしまいその後アッパースウィングになりやすくなる。

実際に自分が行動していることはイメージしていることと異なってしまうケースがある。
それが今回のスウィングのことだった。
自分が行動している時、常に自分の行動を見ること(確認する)はできない。

ものすごく当たり前のことだが、常に見て行動することができないため、イメージしている行動からギャップが生じてしまってもわかりにくくなってしまうのである。

日常の姿勢などでも同じことが言えるのではないだろうか。
良い姿勢を意識していても、普段の姿勢が悪い場合姿勢が崩れてしまっていることがある。
これは、両方の肩のバランスや骨盤の傾きなどの感覚が変化して、良い姿勢をイメージしてもそれが良い姿勢でなくなっていることがある。

つまり、当たり前のことの当たり前にするためには、その評価基準が適切であるか確認する必要がある。
それが今回のフィードバックの自己確認へとつながっていく。

思った以上に人は自分の行動を認識することが難しいのだ。

答えと問い。

以前にも述べたように人は、ヒューリスティックを使用して情報処理することが多い。    

ヒューリスティックと選択 - sports_doit’s diary



人は認知的負荷を避けるという前提があり、言葉の概念の相互理解はかなりの負荷になると考えられる。
というのも会話で1単語ずつ確認するというのは、家族間、友人間や夫婦間どころか恋人間でも面倒な作業とも言えるのではないだろうか。


人はそれぞれ自分が所持している知識やイメージで相手の言っていることを把握することになる。
故に言葉の概念に違いが生じて、教える側と教えられる側に差が生じてしまうのだ。


言葉の理解の差ができたからと言っても、運動における個人能力が埋まるということは少ないだろう。
私自身もこの文章を読むことによって、遺伝子レベルの差を埋めることができるとは考えていない。

では、何の役に立つのだろうか。

それは、理解する時間を短縮することや、教えられる場でイメージの差が生じやすい場面でもスムーズに理解できるようにすることに価値が生じると考えている。

つまり、プレーヤーは教わるときに予習をしておくことが必要だという話になる。
重要なのは、予習で何を意識するのかという点だ。

多くのスポーツプレーヤーは自分の専門種目について予習も復習もしているという情熱的な選手が多いことだろう。
(将来有望プレイヤーになるというイセンティブが発生しているプレイヤーが多いと考えているからだ。)
意識性の法則が重要で試合のためにどんな予習が重要なのか知る必要がある。

言葉の細かい概念までを予習するプレイヤーは、少ないのではないだろうか。
というのも当たり前すぎる普通のプレーについて確認することは、ヒューリスティックの処理からすると邪魔にしかならないからだ。    

当たり前の言葉の確認をすることは自らの問題点発見につながる。
実際の問題解決には、それを実行できる対策までして1つの問題解決のフローになるだろう。

そして、ここでの問いは当たり前のプレーとは何か?ということになる。
単純に野球のバッティングの動作について考えてみよう。

プレイヤーで野手であるとするとき、スウィングすることが当たり前の動作のプレーとなりチェックすることになる。

当たり前のスウィングとは何か?
ということが確認する点だ。

脇を締めることや、バットのヘッドがグリップよりも上がってしまうことなどプレイヤー自身で考えていることがたくさんあるだろう。

それらを理解した上でどのように確認できるか対策をすることが必要だ。
教える側は伝わり方に注意する必要がありプレイヤーは確認するポイントを理解していくことが必要だ。

さて、乱雑に書いてきたが重要なポイントとなるのは予習することに意識することは何か?という問題だ。
これに加えてその対応策と意識する部分まで考えてみると効果的だ。

今回重要だったのは、「意識すること」ではなく「何を意識するか」という問題だ。
答えではなくこの文章は問いだったということに着目してほしい。

 

以上、答えと問いについて考えたことでした。

才能ある人と努力した人が指導した時に出る差。

才能のある人とはまず、どんな人だろうか。
練習でなるべく時間を使用せずに運動スキルを上げることができる人。

努力した人とは以下のことができること示す。
練習に時間を使用して運動スキルを向上させることができる人。

どちらも結果的に運動スキルを向上させているが、そのプロセスが違ってくる。
この両者がスポーツを指導するときに差となるものは、教えるときのバリエーションになりやすい。
教えるときに使うのが、知識・過去の体験だ。
つまり、自分が努力して使用した時間を教える側にアウトプットすることになる。

才能のある人は、最小の努力で運動スキルを向上させることができるが自分の運動したことについて、言語化やリハーサルをすることが少ない。
そのため、教える立場になったとき相手に理解してもらうためのバリエーションが少ないということが起きる。

優秀な選手が良い指導者になりにくいというのはこのためだ。
逆に工夫して努力することに時間を使用した選手は、自己が運動スキルを向上させることにつながった壁やコツを知っているケースがある。
そこから、多くの選手にとって理解しやすい指導方法を確立することが多い。

もちろん、才能のある人でも教えることに長けている人はいる。
逆に、努力に時間を使用した人でも教えることが苦手という人もいる。

今回の場合、努力することに時間を使用することによって工夫する確率が高くなる。
そのため、多角的な視点から物事を考えることで指導するケースに応用することが可能になった時のことになる。

プレーすることがうまい選手がどうしても良い指導者でないこともある。
その時、そのような指導者でも指導内容を理解する必要がある。
理解には、指導者が言っていることの言葉の背景とイメージまで把握する必要がもあるかもしれない。

ここまでスーパープレイヤーが良い指導者とは限らないことについて考えてみた。
これまでの文を考えてみると、努力した人がよい指導者になる確率が高いという見方もできる。
しかし、努力の方向性も間違えてしまう場合もあり、努力した人が良い指導者でないケースもある。

そうなると気になるのは、どうやって指導者を選ぶのかという点だ。
選ぶ時に使用するカテゴリーは、以下だろう。

選手としての過去の実績(所属していたチームも含む)
指導者としての過去の実績(所属していたチームも含む)
実際に指導を受けた選手からの評判
話している相手への配慮(アウトプットしている情報)
(相手の運動レベルと知識を把握して理解しやすい情報をアウトプットすること)

知名度で選ぶことも可能だが、自己でそれなりの選択基準を持っておくことが必要になってくる。
自分が選んだ内容を把握しておくことで後悔することが減少するのだ。

カテゴリーについて考えた結果から理解すると私たちは思った以上に選択を社会的な評判によって左右されているのかもしれない。
多くの人にとって選択はよく考え抜かれており、できる限り後悔することのない幸せな選択を試みてることがほとんどだろう。

信じている評判などの情報は誰かの解釈を含んでいることもあるが、量が増えることによって信頼することもできる。
ただ、それが明確な指針になるかというと過言であり、自己の決断に責務は委ねられている。

ヒューリスティックと選択

選択することは自分の過去や直近に見聞きしたことに委ねられる。
代表性ヒューリスティックの影響も大きく、第3者の視点で考えらるフローもしくは機関が必要になってくる。

人は、認知的な負荷を減らす傾向にある。
例えば、1つのクレジットカードの手続きをしたとする。
この時に作業した入力フォームをデフォルトにしやすくなる。
違うクレジット会社の契約でも、前回手続きした同じようなフローを再現しやすくなるのだ。

過去に使用した経験を利用した場合が多い。
スポーツで考えるとテニスラッケットのスウィングを例にしてみる。
ボールを上げて、ボールがサーブしやすい位置まで落ちてきたときに腕をテイクバックして、肘から腕が抜けるように動かし、ラケットのスポットにボールを当てることを常に意識することは少ないだろう。
少なくとも運動をスムーズにできるようになってからはそれほど意識しなくなる。
最初は意識していても後から意識せずに運動していくように人は認知的な負荷を減らしていき行動に反映させていく。

さらに人は代表性ヒューリスティックなどを使用して認知的負荷を減らし、日常の作業を楽にしている。
これは常に私たちの選択において思考は熟慮されていることが少ないのではないかという仮説になる。
作業スピードを上げる場合に代表性ヒューリスティックを使用することはよくあることで、ミスをする確率もその分上がることになる。

実際のところ、いつも同じ選択で考えていては1日の生活することにリソースが足りなくなるだろう。
もちろん、必要な部分のみを考慮し、時間を使用して問題に取り組むことになる。
この比率は個人で異なり、選択の一部でもある。

さて、ここまでヒューリスティックを使用することについて考えてきた。
ところが、大きなエラーとなることもあるのがヒューリスティックでもある。

多くの人にとって少しでも後悔するようなミスを少なくしたという願望から、ヒューリスティックを使用することが望ましくないものだと考えている人は多いはずだ。
ところが、ここまで読んで理解した人はわかると思うが万能なものはなく、ミスを少なくしようとすると時間がかかりリソースが必要になる。    
選択でどのことにリソースを使用することになるか考える必要があるということになるだろう。
また、選択する基準となるものでは固定的な数値となっているものが必要になる。
というのも私たちの知覚は曖昧で、感じ方で印象が異なってしまう。
次のことを考えてほしい。
冷たい水、常温の水、熱いお湯の3つがある。
5度の冷たい水にしばらく腕をつけておくと常温の水が暖かく感じてしまうだろう。

(むしろ熱く感じてしまうかもしれない。)
つまり、前の体験した内容で常温は変化する。

このように私たちの選択は直近の体験に影響され、経験値から絶対的だと考えやすくエラーとなるケースが多々ある。

だがそれも人が学習する過程で必要となる失敗なのだろう。

ヒューリスティックを使用せずに選択することはアクションのスピードを低下させてしまう。

しかし、失敗を恐れてしまう場合選択に時間が必要になり、トレードオフの関係と言えそうだ。

期待した回答ではなく申し訳ないが、少しでも自分の選択が満足になるようになってもらえれば幸いだ。