答えと問い。

以前にも述べたように人は、ヒューリスティックを使用して情報処理することが多い。    

ヒューリスティックと選択 - sports_doit’s diary



人は認知的負荷を避けるという前提があり、言葉の概念の相互理解はかなりの負荷になると考えられる。
というのも会話で1単語ずつ確認するというのは、家族間、友人間や夫婦間どころか恋人間でも面倒な作業とも言えるのではないだろうか。


人はそれぞれ自分が所持している知識やイメージで相手の言っていることを把握することになる。
故に言葉の概念に違いが生じて、教える側と教えられる側に差が生じてしまうのだ。


言葉の理解の差ができたからと言っても、運動における個人能力が埋まるということは少ないだろう。
私自身もこの文章を読むことによって、遺伝子レベルの差を埋めることができるとは考えていない。

では、何の役に立つのだろうか。

それは、理解する時間を短縮することや、教えられる場でイメージの差が生じやすい場面でもスムーズに理解できるようにすることに価値が生じると考えている。

つまり、プレーヤーは教わるときに予習をしておくことが必要だという話になる。
重要なのは、予習で何を意識するのかという点だ。

多くのスポーツプレーヤーは自分の専門種目について予習も復習もしているという情熱的な選手が多いことだろう。
(将来有望プレイヤーになるというイセンティブが発生しているプレイヤーが多いと考えているからだ。)
意識性の法則が重要で試合のためにどんな予習が重要なのか知る必要がある。

言葉の細かい概念までを予習するプレイヤーは、少ないのではないだろうか。
というのも当たり前すぎる普通のプレーについて確認することは、ヒューリスティックの処理からすると邪魔にしかならないからだ。    

当たり前の言葉の確認をすることは自らの問題点発見につながる。
実際の問題解決には、それを実行できる対策までして1つの問題解決のフローになるだろう。

そして、ここでの問いは当たり前のプレーとは何か?ということになる。
単純に野球のバッティングの動作について考えてみよう。

プレイヤーで野手であるとするとき、スウィングすることが当たり前の動作のプレーとなりチェックすることになる。

当たり前のスウィングとは何か?
ということが確認する点だ。

脇を締めることや、バットのヘッドがグリップよりも上がってしまうことなどプレイヤー自身で考えていることがたくさんあるだろう。

それらを理解した上でどのように確認できるか対策をすることが必要だ。
教える側は伝わり方に注意する必要がありプレイヤーは確認するポイントを理解していくことが必要だ。

さて、乱雑に書いてきたが重要なポイントとなるのは予習することに意識することは何か?という問題だ。
これに加えてその対応策と意識する部分まで考えてみると効果的だ。

今回重要だったのは、「意識すること」ではなく「何を意識するか」という問題だ。
答えではなくこの文章は問いだったということに着目してほしい。

 

以上、答えと問いについて考えたことでした。

才能ある人と努力した人が指導した時に出る差。

才能のある人とはまず、どんな人だろうか。
練習でなるべく時間を使用せずに運動スキルを上げることができる人。

努力した人とは以下のことができること示す。
練習に時間を使用して運動スキルを向上させることができる人。

どちらも結果的に運動スキルを向上させているが、そのプロセスが違ってくる。
この両者がスポーツを指導するときに差となるものは、教えるときのバリエーションになりやすい。
教えるときに使うのが、知識・過去の体験だ。
つまり、自分が努力して使用した時間を教える側にアウトプットすることになる。

才能のある人は、最小の努力で運動スキルを向上させることができるが自分の運動したことについて、言語化やリハーサルをすることが少ない。
そのため、教える立場になったとき相手に理解してもらうためのバリエーションが少ないということが起きる。

優秀な選手が良い指導者になりにくいというのはこのためだ。
逆に工夫して努力することに時間を使用した選手は、自己が運動スキルを向上させることにつながった壁やコツを知っているケースがある。
そこから、多くの選手にとって理解しやすい指導方法を確立することが多い。

もちろん、才能のある人でも教えることに長けている人はいる。
逆に、努力に時間を使用した人でも教えることが苦手という人もいる。

今回の場合、努力することに時間を使用することによって工夫する確率が高くなる。
そのため、多角的な視点から物事を考えることで指導するケースに応用することが可能になった時のことになる。

プレーすることがうまい選手がどうしても良い指導者でないこともある。
その時、そのような指導者でも指導内容を理解する必要がある。
理解には、指導者が言っていることの言葉の背景とイメージまで把握する必要がもあるかもしれない。

ここまでスーパープレイヤーが良い指導者とは限らないことについて考えてみた。
これまでの文を考えてみると、努力した人がよい指導者になる確率が高いという見方もできる。
しかし、努力の方向性も間違えてしまう場合もあり、努力した人が良い指導者でないケースもある。

そうなると気になるのは、どうやって指導者を選ぶのかという点だ。
選ぶ時に使用するカテゴリーは、以下だろう。

選手としての過去の実績(所属していたチームも含む)
指導者としての過去の実績(所属していたチームも含む)
実際に指導を受けた選手からの評判
話している相手への配慮(アウトプットしている情報)
(相手の運動レベルと知識を把握して理解しやすい情報をアウトプットすること)

知名度で選ぶことも可能だが、自己でそれなりの選択基準を持っておくことが必要になってくる。
自分が選んだ内容を把握しておくことで後悔することが減少するのだ。

カテゴリーについて考えた結果から理解すると私たちは思った以上に選択を社会的な評判によって左右されているのかもしれない。
多くの人にとって選択はよく考え抜かれており、できる限り後悔することのない幸せな選択を試みてることがほとんどだろう。

信じている評判などの情報は誰かの解釈を含んでいることもあるが、量が増えることによって信頼することもできる。
ただ、それが明確な指針になるかというと過言であり、自己の決断に責務は委ねられている。

ヒューリスティックと選択

選択することは自分の過去や直近に見聞きしたことに委ねられる。
代表性ヒューリスティックの影響も大きく、第3者の視点で考えらるフローもしくは機関が必要になってくる。

人は、認知的な負荷を減らす傾向にある。
例えば、1つのクレジットカードの手続きをしたとする。
この時に作業した入力フォームをデフォルトにしやすくなる。
違うクレジット会社の契約でも、前回手続きした同じようなフローを再現しやすくなるのだ。

過去に使用した経験を利用した場合が多い。
スポーツで考えるとテニスラッケットのスウィングを例にしてみる。
ボールを上げて、ボールがサーブしやすい位置まで落ちてきたときに腕をテイクバックして、肘から腕が抜けるように動かし、ラケットのスポットにボールを当てることを常に意識することは少ないだろう。
少なくとも運動をスムーズにできるようになってからはそれほど意識しなくなる。
最初は意識していても後から意識せずに運動していくように人は認知的な負荷を減らしていき行動に反映させていく。

さらに人は代表性ヒューリスティックなどを使用して認知的負荷を減らし、日常の作業を楽にしている。
これは常に私たちの選択において思考は熟慮されていることが少ないのではないかという仮説になる。
作業スピードを上げる場合に代表性ヒューリスティックを使用することはよくあることで、ミスをする確率もその分上がることになる。

実際のところ、いつも同じ選択で考えていては1日の生活することにリソースが足りなくなるだろう。
もちろん、必要な部分のみを考慮し、時間を使用して問題に取り組むことになる。
この比率は個人で異なり、選択の一部でもある。

さて、ここまでヒューリスティックを使用することについて考えてきた。
ところが、大きなエラーとなることもあるのがヒューリスティックでもある。

多くの人にとって少しでも後悔するようなミスを少なくしたという願望から、ヒューリスティックを使用することが望ましくないものだと考えている人は多いはずだ。
ところが、ここまで読んで理解した人はわかると思うが万能なものはなく、ミスを少なくしようとすると時間がかかりリソースが必要になる。    
選択でどのことにリソースを使用することになるか考える必要があるということになるだろう。
また、選択する基準となるものでは固定的な数値となっているものが必要になる。
というのも私たちの知覚は曖昧で、感じ方で印象が異なってしまう。
次のことを考えてほしい。
冷たい水、常温の水、熱いお湯の3つがある。
5度の冷たい水にしばらく腕をつけておくと常温の水が暖かく感じてしまうだろう。

(むしろ熱く感じてしまうかもしれない。)
つまり、前の体験した内容で常温は変化する。

このように私たちの選択は直近の体験に影響され、経験値から絶対的だと考えやすくエラーとなるケースが多々ある。

だがそれも人が学習する過程で必要となる失敗なのだろう。

ヒューリスティックを使用せずに選択することはアクションのスピードを低下させてしまう。

しかし、失敗を恐れてしまう場合選択に時間が必要になり、トレードオフの関係と言えそうだ。

期待した回答ではなく申し訳ないが、少しでも自分の選択が満足になるようになってもらえれば幸いだ。

型と結果からのフィードバック

以前述べたことがあるが、指導されたことのフォームの継続期間はどこまでか?ということを考えてみたい。
これは最終的に個人の選択に委ねられる。
しかし、その選択する場面において考えることが必要になるため細かく考慮してみようと思う。

スポーツで何かを教わるとき(新しい運動を獲得するとき)、型のようなモデルがあり真似をすることが多い。
真似をしてできる選手とできない選手がいる。

このとき、どの程度まで教わったことを継続するかということになる。
教えられた型を真似をしてできない場合の考えられるカテゴリーは以下になる。

・型を真似できる筋力レベルに達していない
・運動獲得に癖があり真似できない
・真似していることが間違っている
・プレーの場面で心理的な負荷がかかり型を真似できていない

上記の考えられる点について考慮してみよう。
(例は全て野球のものとする)
ここで述べている真似というものは、運動を真似て望んだ結果を得ることを指し示し完全な真似をすることではないこととする。

・型を真似できる筋力レベルに達していない
バッティングでバットを触れていない状態。(バットを振った時で体が意図しない動きになってしまう)
解決策として継続的なトレーニングをオススメする。

・運動獲得に癖があり真似できない
バッティングでスウィングが波をうっているような状態などが言える。
バットを内から出すことができずにドアースウィングになっているような状態でもある。
バッティングの運動に癖があり、それが真似する型を邪魔している。
なめらかにスウィングできるように運動獲得する必要がある。

・真似していることが間違っている
自分で意識している運動が型と微妙に違っているために、真似ができない状態。
フィードバックの方法を変化させて、運動獲得のコツを理解する必要があるだろう。

・プレーの場面で心理的な負荷がかかり型を真似できていない
人物や試合の場面などの影響で緊張などすることで普段のプレーができず真似ができないということ。


筋力レベルに達していない場合は、自分で目標を作り達成してから真似するフェーズとなる。
運動に癖がある場合は、癖を改善する必要がある。
真似していることが間違っていることは気がつくように他者からフィードバックしてもらうことが効果的だ。
心理的に影響している場合は自分で方法論を考える必要があるだろう。
例えば、試合に両親が来ると緊張して打てなくなるのであれば、ピッチャーの足元を見ることでタイミングを計り緊張しないということなどだ。

さて、ここから指導されたことのフォームの継続期間について考えてみる。
考えられる4つのカテゴリーが解消されていれば型を真似てもある程度の結果を得られるだろう。
もし、それでも難しく型を真似をして望んだ結果が得られない場合は結果からフィードバックをしていくことに変化させた方が好ましいだろう。
真似るものを違うものするということだ。

ただしコンセンサスが必要になる。
アドバイスをもらった人を納得させる練習の継続期間があってこそできる変化だろう。
これは言われたことを聞かないことではなく、人の行動特性に合った指導方法を考慮した方が良いケースだ。
真似することの検証フェーズを終えて、フィードバックした時に好ましくなかったと判断することになる。
真似することの継続期間は、以前の成功した体験をもとにしてもいいだろう。
前回真似て打てた時は二週間で結果になったが今回は一ヶ月経っても結果にならなかった場合判断するベースは二週間から一ヶ月になる。
参考にするのは、知識や他者の経験、自身の経験になる。

ここで理解してもらいたいのは、アドバイスする人は相手にとって好ましい変化が訪れると考えている。
お互いにコンセンサスがあった上で、結果からのフィードバックを受け入れ次の変化する(今までとは違うプレーの真似をする)フェーズへ移ることが好ましいだろう。

変化するまでに必要なスパン(期間)は、数値は個人差があり明確にするには難しい。
そして、個人の選択に責任が委ねられることになる。
選択することは自分の過去や直近に見聞きしたことに委ねられる。
代表性ヒューリスティックの影響も大きく、第3者の視点で考えらるフローもしくは機関が必要になってくる。
次回は、この点について深く考えてみようと思う。

選手が練習のマネジメントを理解すること

選手がマネジメントの意味を理解すると聞くと難しいかもしれない。
だが、練習の意図や試合における選手の起用方法などを理解することであれば可能ではないだろうか。

目標があり、それに対してマネジメントしていくことはスポーツで理解がしやすい。
実際の体験を通してマネジメントを学ぶ機会にできるのがスポーツでもある。


全てを教えるというこというのではなく、一部の内容でなぜその選手を起用したのかという根拠と特性を説明するだけでもマネジメント層の話になる。

監督の采配の意図を理解するということは、戦略と自分の能力がどのように関連しているか知ることになる。

会社で考えると、意思決定におけるマネジメントにおいて考慮して、人事含めて実行されたことの内容を知ることに近い。
このことをスポーツで理解すると、監督の戦略による采配が人事の起用と重ねることができる。
意識性の法則で、端的な作業のみだけを理解して作業するよりも、長期的な目標を含めてどのように達成するかを理解することが価値となる。


対戦相手や結果にこだわることが含まれなければ学べないことがかなりある。
また、適度に健康を保つための運動では、得難い体験なのがマネジメントのフィードバックだと考えている。

もちろん勉強でも自分の目標を達成するためのマネジメントと実行について学ぶことは可能だ。
スポーツでのメリットは、チームや自分の行動特性を理解する機会が多いことや、フィードバックについて他者評価が参考になることがある。


ここまで簡単に言えば、スポーツではマネジメントを学ぶことが可能だと述べた。
ただ、重要なのはマネジメントを学ぶことが必要かどうか考えてユーザー体験をデザインする必要があるということだ。
スポーツを通してマネジメントを学ぶことは客観的に考えると理解させることに時間のリソースが必要になることや検証が必要になる。

良いものだと考えて取り入れていっても、全体が肥大化して理解しにくい状態は好ましくないだろう。
日栄養の分析に関する記録をつけることや筋力レベルの調査、マネジメントの座学など、毎週どこかの時間で実行していては練習の質が下がってしまう可能性がある。
また、1日全てをスポーツに使用するプレーヤーばかりではないという問題もある。

安さだけを追求した商品が飽きられてしまうことに似ているかもしれない。
一定以上の水準をクリアした品質の安さであれば問題ないとするのではあれば全体のバランスも重視する必要がありそうだ。
大切なのは決断(どれを選択するするか)とバランスの良さ(アクションした内容の質)かもしれない。

現状で指導者のマネジメントにおけるフィードバックは、試合の勝敗などが主なものでかなり大まかである意味負担になっている。
指導者のマネジメントに関して質の良いフィードバックが今後どこかで必要になりそうだ。

呼吸

呼吸と歩く姿勢が関係していることはご存知だろうか。
複式呼吸が大切だと言われるのは、姿勢の維持という部分もある。
とくに影響が大きい部分は胸部になる。
通常呼吸が浅い場合は、当然肺の膨らみが少ない。
呼吸が浅い場合、胸を張るような姿勢にはなりにくく、猫背になり腰痛などの要因になりやすい。
呼吸が深くなり、逆に胸を張ることができれば骨盤の角度も変化する。
そのため、姿勢にも良い影響になる。
ここで無理に骨盤だけ競技にとって都合の良い角度に変化させれば良いと考えることもできるが、全体のバランスが重要なため、違う部分を痛めることもある。
背骨は二足歩行するために屈曲していることから、無理に筋力で骨盤だけ変化させると不自然な屈曲となり、違う部分を痛める要因となることも考えられる。
全体のバランスを考えると、呼吸からの姿勢改善が好ましいだろう。


もちろん姿勢を気にしなくても問題のない人もいるが、スポーツ競技で良い結果を残している人ほど細部をこだわっている人が多い。
強豪校などで指標にされやすいのは、礼儀正しさなどではないだろうか。
礼儀正しさは、外見上見ていて気持ちのよいものであることが多い。
しかし、普段姿勢がよいことは体幹の安定性を含めた部分も強化することができる。
もちろんトレーニングで強化できる部分もあるが、普段から姿勢を意識して体幹が強くなっているのであれば日常の習慣的になっているものの方が効果はあるだろう。

問題は視点をどこに置くかにある。
日本式のトイレで体重が右足左足のどちらにかかるかという研究も役に立てようと考えなければ、本当に無駄なものになってしまう。

以前にも述べたが、左に体重がかかっていることのわかった研究は、常に平行を保っていても若干中心をずらしてバランスを取っていると証明したものでもある。

普段何気ない小さな部分でも関係していることを強者ほど理解しているということがある。

美は細部に宿るではないが、結果は細部まで気にして勝利になるのかもしれない。
毎日の連続が試合の結果につながっているということは理解しやすいことでもあっても練習を継続することは難しい。
だからこそ、普段の習慣からよい結果を残すスポーツ選手は気にするのだろう。

それもまさに呼吸することのように。

現状維持と退化

現状維持とは退化だろうか。

現在の日本の人口と地域の人の減少について無理に維持しようという考え方が強いように感じる。
無理に人口を維持することよりも、人が少なくなることによって私たち自身がどのようになりたいかということを明確にした方がいいのではないだろうか。

スポーツでも現状の維持で弱くなることがいけないと考えるのではなく、現状のプレイヤー人口でどのような競技の設計をするのかという点を議論した方が良いのかもしれない。

プレーヤーの人口の増減が競技力に影響すると考えた時、全体の競技人口が減るとプレーヤーの人口ピラミッドの高さは低くなる。
プレーヤーの人口ピラミッドの高さを競技力の強さと比例すると考えられたのであれば、日本でのスポーツにおける現状の維持は競技力の低下につながる。
少子化対策もスポーツの競技力維持・向上につながるということになるが、これは範囲が広すぎるため議論が必要になりそうだ。

現状を維持することを[これまでの指導方法や教育プロセスに変化がない場合]とした時、競技力が下がることは人口減少から考えると仕方のないことなのかもしれない。

ただ、現状を維持することは勝てなくていいということではないと理解しておく必要がある。
これまでと同じように強さを求めて挑戦した結果だからだ。
そして、これからも変化していく必要がある。
ITの効率化やデータの利用、努力の使用方法や方向性についてのマネジメントがより改善されていくことが重要なのだ。

スポーツにお金が使用されるのは色々な意味で2020年前後がピークになるだろう。
2020年前後を一区切りとして今の日本人という言葉の概念で強さを維持するのは最後になるのかもしれない。
純粋な日本人ということで強さを維持することばかりで考えるよりも国際化によって色々な人種からスポーツが支えられることでさらにコンテンツとして面白くなる。

今の大相撲のように強い力士は日本人力士でない状態だ。
このような状態がどのスポーツにも起こりうると考えられる。

これまでのことから考えると日本のスポーツにおいて現状維持は退化とは言えないのかもしれない。
ITを使用することも、根性論が否定されていることからも、合理的へ変化し続けていると考えられるのではないだろうか。

しかし、楽観視はできない。
子供の人口は減り始めており、プレーヤー人口にも影響を受けることが予想される。

それでも、日本のスポーツへの情熱は世界のどの国にも劣らないものがある。
今後も、強さを求めて変化し続ける現状維持であることを願いたい。