運用するフェーズと採用するフェーズは異なる。

この内容は言われると当たり前ことが含まれています。


バランスは大切だということが述べられていながらも
実際は、そのバランスの概念は非常に難しいものでしょう。

徳川家康も、古典の言葉でさえ、述べられています。

www.zkai.co.jp「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」

 

https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php

「及ばざる は過たるよりまされり 」

どちらも逆のことを言っていますが、バランスによって目的を得ることへの解釈ができます。

 

言葉の意味も個人によって意味が異なることはわかっていますが、分かりきったことを再度理解することは、難しいものです。

では「失われた20年」は、本当に失われた20年だったのか考えてみましょう。
「失われた20年」といいますが、実際には、バブル経済まで隠れていた問題が余裕がなくなり、意識することになったようにしか見えないのは、ポエムと言っていいほどの感想です。

経済的には苦しくなっている部分があるという事実に対して、あまりに悲観的な運用が進んでしまっています。

失われた20年という言葉ではありますが、実際に20年の間で失ったものは何があるのでしょうか。
実際にはイメージがひも付いているだけで、化学やテクノロジーの発展でよくなっているのではないでしょうか。

言葉が利用されているだけで、過去における「挑戦」概念を利用していないように見えます。
言葉の運用フェーズしていくことからネガティブなイメージと行動を形成されている可能性があります。

 

 

では運用するフェーズに対して、複数から確認してみましょう。

1、スポーツのプレイヤーとして1つのフォームを利用すること
3、算数の答えの回答
4、スマートフォンへの移行

スポーツでフォームを採用することで得たい目的が存在します。
運用するとはフォームが固定されることですが、この内容については採用時から筋力や運動に対して、なれるという感覚が発生しています。

なれることはフォームが固定されて安定するイメージですが、自分で気がつない筋力の低下、疲れなどが一定期間継続した場合のずれ、けがによって崩れたバランスを考慮した内容なども含まれます。


ゴルフなどのフォームなどから考えて見てください。
例えば、クラブのバックの動作を深くし、肘を曲げる動作をわざと加えるフォームを採用したとします。
肘を曲げないように力んでしまうことでボールが安定しないので、力を抜くことで飛距離と安定性の確保が目的です。

採用時は、以前のフォームの影響で考慮しなくても、力が加わる癖が存在しており、行って時期は安定はしますが、長く利用していると今度は、力が抜けすぎることからミートする時点でボールがずれて、ボールがフェードしてしまうなどの懸念点もあります。


今度は算数の答えの求め方からです。
小学生が算数などを回答があっていても、計算式が
間違っていることから点数にならないことで話題になっています。

 

lineblog.me

例えば計算式だけではなく、これを思考フローとして目的に利用するのであればどうでしょうか。
例えば業務に対して、処理と実行を規則正しく行うことが求められる場合では、計算式が違うことでそれがヒューマンエラーの確率が広がる処理を行う習慣になるかもしれません。

しかし、知りたい結果に対して、最短のアプローチではなく、
違うフローを検証して、通常利用しているフローが利用できない場合へのデータ収集をしたいのであれば、計算式が異なったとしても目的が同じであることを理解して、複数の目的を求めるパタンが必要でしょう。

経済成長時は、計算式を違うものや余分なことをするケースが邪魔に見えるなどあるかもしれませんが、現状の文化モデルなどを考慮するケースでは、再度採用フェーズとして検討する余地がありそうです。

 

実際にこの内容は20年前後前から検討されているので、問題は、採用するための人の行動原理などについて考慮することまで含めそうなので、人の「惰性でこうなった」という見方は同じミスに繋がりそうです。

ローカルの閉鎖性などで運用フェーズに固執することが記事になることがありますが、東芝の衰退や一度JALが組織体制で問題になっている比較からすると地域ではなく脅威という認識がどこにあるか、かもしれません。
組織の運用フェーズを変化させることが脅威となっていれば変化しないことを選択しますが、これは人の「惰性」というよりも怒りの矛先が向かないようにするための「普通」のように見えます。

 

ガラケースマートフォンへ変更した点に関しては、利便性が学習コストを上回ったことがあげられます。
学習コストと音楽プレーヤーやネットやチャットアプリなどを利用することが学習コストへの心理的な負荷を減らしたことあげらます。
高齢の方は、情報源がスマートフォンに依存していないため、ガラケーの少ない電話機能などで利用に対する問題ないことが予測されます。
この点は理解しやすいでしょう。


運用フェーズと採用フェーズが異なるという内容は言われてみる内容は当たり前です。
言われたらわかるという言葉と私たち自身が注意するべき内容としては、
人の認識ベースだけでは、確実に注意では補えなず、コミュニケーションを前提としたフローが存在していることです。

 

これがわかるから何かという意見をいただきそうですが、実際は同じ内容が含まれているだけです。

では、この内容を少し抽象化して見ましょう。

 

新しい行動を採用する。
採用して目的の結果を得る。
得た内容で継続した目的をえるため、行動を習慣化する。
習慣化した行動が自身の認識、環境、基準値、時間の内容によって目的の結果を得れないため、他の行動を獲得する。 

 

この当たり前の中に潜む運用フェーズは、私たちに死角をもたらすことや過去と結果と目的と未来に対してのアプローチへ内容は、

どうすれば防げたのかという問題のに対して考慮した方が良い詳細の問題です。

だれかが犠牲にならなければならなかった問題は、問題という言葉の意味にあって肩を犠牲にして投げ抜く甲子園の投手も、医大の入試で性別における優位が確認されたことも、ある一定の思考フローからすれば運用フェーズにすぎず、それは設定された基準へのアプローチが定期的に行われていないことが問題として確認できないことを考えた方が良さそうです。

 

お昼のワイドショーで報じられる問題も解決策があってもなかなか改善しないのは、実際の結果は対策と内容によって満たされる感情が実は目的であることかもしれません。

桃太郎も鬼からして見ると運用フェーズを壊す悪人に見えますし、
いくら街を破壊しているからと言っても、5人で攻撃をするスーパー戦隊は、ロボットの登場やヒーローの変身を待つ優しい怪獣は全てが悪いのでしょうか。

いえ、実際は怪獣が悪いのですが、どんな当たり前という前提の常識という言葉にでさえ運用フェーズがあることを知り行動が必要なのかもしれません。

 

 

結局は、失われた20年も言葉であって部分的には進展はしています。
メディアや経済であまりにも輝かしかった過去が取り上げられますが、問題は過去の数値と自分が得た結果とを基準や指標にすることで比較していくことであって、この文章そのものが指標ではないということです。

 

重要なのは、スポーツにしても、社会に出てからの学習にしても、自分が体験した内容と把握したリスクによって得た結果を明確にし次へつなげることで、モデルとなるメディアに一致させることではないのです。
それが運よくどこかで誰かの役立ち結果として、受け継がれ自分や他者の経験として利用するかは別ですし、鬼と仲良くする桃太郎のメディアのモデルが悪だという話ではありません。

時代は変化しても、人の感情の発生は幸か不幸か変化していません。
脳の進化が止まったといえば残念ですが、過去の人と体験を一部であっても共有できる部分が残っているのであればどうでしょうか。

「進化が止まった」も見方と言葉次第です。

 

自分の言葉で説明し、それが足りたないのであれば詳細の内容を探して改善し、それを相手や自分が理解しやすいように変更していくことは理解していても、その基準については考える機会がなければ考えません。
失われた20年も、ヒーローの変身を待つ怪獣も、高校生活でしか利用されない数学も、スポーツの根性も、運用フェーズと改善点への基準へのアプローチは、個人の経験とある種の未来へのイメージの中にしかないのです。

 

外国の教育や、文化、経済モデルを利用して失敗したように見えることがありますが、「個性の尊重」でさえ言葉の意味を輸入しているだけであれば、「意識高過ぎ」と言われながらも現状教育システムと可能な労働時間や社会人の学習から小学校以下の教育へ、配慮することも必要でしょう。

 

私たちが選んだ社会は改善を前提にし、それを運用し続けており、それが「伝統」にも関連するケースのような解釈もできます。

 

CMから放たれる「意識高い」もいわば、

徳川家康の言葉の「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で運用のフェーズと言葉への認識と採用フェーズを考える必要がありそうです。

ただ、それは現実的には理想的すぎる部分があり、チューハイを飲みながら偶然につけたTVでやっていたスーパー戦隊特集番組の途中に流れるCMで「意識高過ぎ」と流れて考えるくらいがちょうどいいのかもしれません。

 

完璧な指導者は現在もいるのか

指導者という言葉は、世代によってイメージが異なるのではないでしょうか。

現状の指導者は、情報が多いのである程度学習していなければバッシングをあびるケースもあります。

私が中学の頃に、実力よりも学年によって背番号が与えられていた地域もあったので、保護者からの圧力を教える人が受けることを子供ながらに体験し、それがいいのかは現在も決断の範囲だと考えています。

時代はいつであっても、指導者は選手のプレーばかりを考慮することが難しいことはありますが、練習内容や食事など完璧に解答をできる指導者はいるのでしょうか。

教えることが絶対だった過去の指導者の存在は、プロ選手の事実から発信される情報によっては、変化しつつあります。

 

もちろん、教える人の年齢などでそれらは変化します。
実際は、教えている内容と結論にあってそれがどのような結果になったことを評価できたかで考慮してもらえればいいのですが、現実はなかなか理想のようには行きません。

「完璧な」という言葉が出てきましたが、今もそのような人はいるのでしょうか。
教えることが絶対で完璧ではないにせよ、満足いくスポーツプレーヤーでいる青春をおくることができたのは、今はもう選択する内容が増えたためなかなか難しいかもしれません。

結局は現状で一番ではなくともベターな選択を迫られることになるのですが、指導する人は何かを捨てた上で選択することでしか、進むことできないのがどれほど綺麗事を並べても人が歩んできた事実でもあります。

 

私の高校時代の監督が、「監督は孤独だ」


と言っていたのが印象的だったのですが、結局はマネジメントする人はその立場になった時に得るために捨てることを前提に選択を迫られます。

「完璧な指導者」ということがない以上、恐怖における指導もある程度の寛容性と改善をもってある種の犠牲という形式で変化していくしないというのが現状といことを以前述べました。

このことから考えると、「完璧に教えることができる」というイメージと前提は逆に今後発展する化学の内容を加えにくくしてる楔なのかもしません。

 

 

「完璧な大人」「完璧な指導者」というイメージも今後私たちがどのように選択するかによります。
ただ、侍の切腹のイメージも現在のイメージになったのは豊臣秀吉備中高松城を攻めからという説であったり、学校の制度ができたのも明治期によるもので、日本人らしさも常に変化してきたことも事実です。
それであるならば「完璧な指導者」のイメージとはなんだったのでしょうか。

もちろん、監督の指示は組織上は絶対だと言うことも時には必要であってもそれが納得のいく選択であれば問題なく、たとえミスがあったとしても後悔し、それによって改善していくことの方が現実的であったりもします。

 

 

手に取ったものは、リスクなのか、手段なのか、次への選択にする情報なのか、不安なのか、銀の斧か、金の斧か、鬼を退治する金棒なのかは、わかりません。

 

www.youtube.com

桃太郎や金太郎、浦島太郎が登場する携帯電話の動画だけを知っているおとぎ話を知らない子供は流石にいないかもしれませんが、この三人の仲が良いというのが今の子供の常識で30年後には銀の斧・金の斧を選んだ物語の世界の住人になっている未来だとした時、何をもって完璧なのでしょうか。

 

完璧も実は定義できていないことがある事実だとするなれば、基礎のプレーができるプレーヤーを教えることができる指導者は、選手の提案や許可などに対して選択の余地を受け入れる部分が発生することになることになりそうですが、どうでしょうか。


「今」という状態は物理学では、人が認識することができないという説明があります。
人が今を認識した時点で時系列上時間が進み、「今」と認識した時点でその今という時間は過去だからだそうです。

 

なにが言いたいのかといういうと、常に未来に対しての選択でしか人は生きてきてはいないのであれば、今も昔も改善の処理は変更されていなく、常に予測して改善を重ねて生きてきたということです。

であれば、短期的な今の最善の報酬も見方を変化させれば予測して得た未来なのです。

 

そして、今の報酬だけを選んだ現状維持も計画と改善と言えるでしょう。

ただ、変化するだけを求めるのは自分では難しいなと考えています。

完璧な指導者で利用されている言葉も結局のところ、完璧は言葉であって現在もまだ未完です。

常に責任を求められて、限界だけを求めらることにおいて現状は耐えれそうにないなということも含め、今後見つめ直す必要があるでしょう。

 

私が、野球でスポーツに怖さを利用されることそのものに疑問を持ち、15年近くが経ちます。
いまだにあの時代においては、調査や検証の結果、理想と現実をすり合わせても、多数派が時に利用することになるのだろうということは理解しています。
ハンナアレントにおける全体主義や、ルソーが残したエミールにおける内容、心理学おけるスキーマ、二要因理論、意識無意識へアプローチしたフロイトを含めて個人の反応によってどのような学習形態が望ましいのか考慮したとしても、今のシステムでは現状の内容を運用しなければならなく、その中に「完璧である指導者」のイメージが含まれて現状の立場になっているのではないかというのが私の持論です。

 

そして、責任感や指導することへの選手に対しての使命感はあれど、部分的な最善の完璧ではあっても、行動規範や人格を完璧に定義できる指導が現状の人で利用できることが実は完璧ではないと気づけたことに、これまでの歴史や知識の蓄積に敬意を示したい限りです。

これだけ時間を利用しても組織が運営されることにおいてスポーツにおける最適解ですら出ていないの現状だったりするのですが、スポーツの役割がビールを美味しく飲む場であることや、人生の一部として時として迷いそうなる他者を助ける一翼を担えることであって、八百長の材料にはならないことを願うばかりです。

スポーツに対して物理学を利用する尺度

スポーツに物理学を利用する方法はプロスポーツ選手が利用している内容を本で読んだことがあるのではないでしょうか。

物理学をスポーツに応用するとして、それが流体力学からニュートンの運動力学の把握、コリオリ力を理解するために二次元回転座標系のベクトルなど詳細まで理解するときりがありません。

では、物理学を学ぶ必要があるかどうかという話ですが、プレーヤーがスポーツを上達するために理解する必要はありません。
ただ、利用するのであれば視覚や感覚が必ずしも正しくないということにつなげることに意味があります。

視神経によって人の視覚のズレが補われることから、プレイヤーの感覚も筋力の衰えによって変化することをどのように評価するかという基準が変化したことを受け入れたことにあります。

 

コペルニクスが地動説から天動説への疑問を投げつけることでさえ、アリストテレスが築いた知識の運用が新しい解釈の壁になっています。

spaceinfo.jaxa.jp

 

自分が現状持っている感覚や尺度がいかに誤っているのかを体験することになるのは、魔女狩りをした中世よりも、宗教が阻んだ科学への見方の方が理解しやすいかもしれません。

 

 

歴史の話になってきましたので、視点を変更してみましょう。
例えば、漁師が天候と時期、そして温暖化によって把握していた内容を感覚に頼っていたものを調査機器の進歩と魚の生態系を理解することによって生産性をあげたとします。
地動説への変化も、観察へのアプローチの変化と観察する器機の進歩が関与して、宇宙のより明確な内容を知ることができるようになりました。

どちらも、レベルは異なれど、内容は伝えたい話との差異は変わりありません。

 

歴史から学ぶことが様々な問題を防げるのかというとある事象と人の認識構造を抽象化し言葉の利用によって、心理学や行動経済学、生理学など複雑に絡み、時間をかけて対処する必要があります。

そして、これがスポーツにどのように関連しているのかは、自分の感覚と調査している機器の進展による自分の運動をどのようにして理解するかに回帰します。

例えば、投球のポイントでボールのリリースするポイントを理解したとして、それが運動とした時、遠心力によって実際には現実化したいモーションとは違っていることに気がつくことにつなげれます。
ただし、これは見てる人からすると1秒以下の内容となりなかなか気がつくことができません。

 

現状は、物理学の内容をスポーツへ取り入れることはプロの選手ほどとりいれやすい環境になっています。
ただ、実際に必要な選手は、努力していても運動神経は悪くないにもかかわらず、それが結果にならないことを細分化して理解できないプレイヤーです。


コペルニクスなど500年も前のことを今さら引きずり出してそれが今の自分たちのどこに無意識への処理構造として役立っているかはわかりません。

むしろ、当たり前の常識になっていることにこそ、人の進歩が垣間見える瞬間でもあります。

感覚を大切にすることは、人らしさであって逆に全てを定義される物理学を基準に把握するのは人の処理機能から考えると現実的はありません。

良い動画などでうまい選手は伸びていき、それを補えない選手が時間をかければそれを補えるようにできるシステムは理想です。
動作の確認などは、どの段階でどの指導が最適なのかは、個人の動作のクセや認識動作まで加わるため、現状AIでは補えません。
それをおぎなえるようになった時、スポーツの上達は指導者に左右されない最低ラインを保持することができることが考えられますが、それは手塚治虫さんが書いたアトムの世界同様まだ先の話でしょう。

 

 

それでも、地動説が一般的だった世界から現状の世界への進展への比較からすると、それほど幻想な世界ともいうほど離れていないでしょう。
それは、スポーツを考える道具として利用できる一歩と呼べるのかもしれません。

アリストテレスからガリレオニュートン、そしてアインシュタイン相対性理論へと繋がり、その理論の応用がインターネットやGPSに利用されているのが現在です。
完璧なAIによって人が虐げられるSFの世界があります。
知識の継承でできた人の感情を理解できるのが完璧のAIとすれば人を支配するAIはそもそも完璧に見えないのではないのかということも含め、AIの解釈もスポーツの解釈も未来では変化しているでしょう。

物理学をどのように利用するのかと同時にこれは自分が見てる視点をどのように変化するのか、でもあります。
だからこそ、「スポーツで利用する時に物理学を利用せよ」ではなくプレーの向上における選択肢の1つとして捉えることを今回の内容は示しています。

高校や中学の時に知った歴史上の人物は、歴史上の人物としてよりも今も知識として私たちやスポーツを含めて関係していることが価値見出しているのかもしれません。

文化と形容されるものの影響

「文化」という言葉はあります。
実際には、自分の意思が最大の優先順位の頂点に君臨しており、「文化」が選択の基準に及ぼす影響など微々たるものだと若い頃は考えていました。

ですが、実際「文化とは」を考えた時影響はかなり大きなものです。

詳細は以下を参考にしてみて下さい。

kotobank.jp

方法次第では、文化という内容は人の選択の基準を基盤する良し悪しをさえ決めてしまう要因さえ持ちます。


ここで疑問に考えたかもしれませんが、スポーツと文化の問題の接点は把握して考え尽くしているのではないか、という点です。

自分たちが生きている社会の枠そのものは普段から体験しており、それを軸にして判断しているのだから文化とスポーツについての考えられる影響というのものの必要が考えられないというものです。

これは、私自身も言語化するまで意見程度に考えていましたが、成熟期と考えられている現在は無視できない状態です。

現状の選択基準において、個性を尊重する動きは徐々に浸透しており、高校野球の球数制限なども個人のスポーツ人生を長く見ての配慮になります。

この内容に、日本の文化的な側面と個性の尊重という内容が含まれつつありますが、モデルについての議論があまり存在していないことには疑問があります。

私たち自身がどのようなモデルを獲得したいのかという意見がないことはもちろんですが、
それを選択する基準そのものについてメリットとデメリットを語られていることが少ないのです。


自分の意見や個性の尺度の設定など、文化という事柄から考えると日本は組織に委ねる部分が大きいものでした。
「それは重い」「意識高すぎ」という主張があるのはもちろんいいのですが、事実的に直面している問題に対して、考えなくてもいいフローを利用していなければこれは成立しません。


行なっている動作や思考している内容が現実的に落とし込まれていないものは論外ですが、考えなくてもいいフローを運用してきた結果が現状です。
この問題は、「選択せよ」ではなく選択するためのデータが存在していないことにあります。


しかし、成長が止まった社会の背景やゆとりの導入からsnsの意見の交流など含めて、今までの運用プロセスに関する問題が様々に浮上しています。
残念ながら、過去の成長しない部分をいくら嘆いても過去に戻ることはできませんし、現状の価値観という選択を正しいとした以上は、新しい選択肢を選びそれに納得する内容を見出す他ないというのが現状です。


ただ、いくら個性を大切にする選択肢が文化の影響に受けるとして考えることが必要としながらも、組織の一員として身を委ねることも時に心地良い部分もあります。
これを完全な合理的なものが人でないのであれば、考えることをせずに行動し続ける側面も持つこともまた人なのだと実感するにはいささか都合が良すぎる解釈なのでしょうか。

いずれにしても、私たち自身が過去の体験によって得た内容を80年という平均寿命を元にした場合にその長さを維持できるほどの安定した社会でどのように自身の価値観と与えらた情報によって選択基準を変化させるかということを望むモデルから選択していく必要があります。
現実には、日本の価値基準そのものから得れるモデルというものが、存在しないことも含めて現実に落とし込んだ内容に関して、スポーツの立ち位置を含めて考えていくことが必要でしょう。

それが結果、ストレス解消であることも楽しむことのみであることでも問題ないですし、
個性の主張という変化から5教科が優先順位にされている進学へのアドバンテージを部分的にスポーツへ移行することでもいいでしょう。

もしスポーツの指導へ改善が見込まれる場合は、スポーツに関する思考の利用を変化させることになるので資格から指導方法まで着手することになります。
かなりの負荷とプロセスを変化することになりますが、実際的な問題への優先順位とどのようなモデルにしたいのかに現実的な落とし込みが必要です。

現状は、個性を大切にすることは意識されつつも結果と練習に関する内容はボランティアに近い指導者に委ねられています。
保護者の強い要望によって書類整理が増え、教えることへの時間が足りなくなる現状を考えると、暖かさがないと言って教材への簡略化が進まない現状には今までの言葉が無にされてしまうというのは過言ではありません。
実際に着手する問題はスポーツという課題なのかということもあり、教材に対する暖かみと子供へ接する暖かみ、保護者への対応(エビデンスを含めて)を比べることも含めて、「意識高すぎ」というセリフのCMが頭をよぎるのが昨今です。

 

結局はどこかで選択基準の変更をする他ないのですが、スポーツの物語が変わりゆく社会にでさえ希望を与える役割が変わっていないことに、ベーブルースが病気の子供のためにホームランを打った逸話が現在のプロの選手が同じように受け継いでいる今に敬意を示したい限りです。

新しいトレーニングについての議論の根底あるもの

どんなものにも役立つかどうかという疑問はつきものです。
レーニング方法にも新しい科学的な部分で変化することがあります。

これには文化的な基準と物理的な影響などがあり把握できます。
文化的な基準は、野球で言えば投げ込みにおける感覚との再現確率の向上と自信におけるメンタルの強化などが当たります。
物理的な側面は、映像からの確認と数値化などが挙げられます。

これらを簡単に言えば採用基準を自分で検証することに対しての価値観です。


[役立つ]に関しては、学習内容ついても議論になっています。
家庭科での裁縫を今も必要かどうかというのは議論されていた記憶があります。
しかし、これは役立つものに対しての変更するプロセスが確立されていないという問題があります。

公共教育などに対して評価基準のプロセスを見直す基準の設定が困難ということにあります。
過去への内容は、組織の行動のプロセスの変換自体が戦争や革命などがあったことによりますが、70年以上も同じスパンで利用していた場合、明確に何かしらのフィードバックする基準が必要です。
他の国の競争相手が存在していない江戸幕府などのような状態であれば別かもしれません。

情報の授業などの追加など変更はされていますが、大学などの小規模組織へのアプローチなどから全体に反映されるプロセスはあまり議論されていません。
スポーツなどから得られる情報をどのように得られるかという観点からも、この部分は無視できないでしょう。

学習内容における優先順位基準そのものを把握していたことがないもしくは、それをどのような妥当性を保持させるかのデータがないという問題が難関かなと考えます。

「役立てる」という言葉は、意外に問題であり、意識次第でどの科目も役立たせることができます。
技術の授業にしても、体育のスポーツから5教科でさえ同じように言えるでしょう。

では、意識で「役立つ」を決めることができるのであればトレーニングにしてもあまり意味がないのではないかという疑問になります。
ただ、意識して学習するプロセスを他のものへ応用することにはそれなりの時間と訓練が必要です。


例えば、以下2点を考慮してみましょう。

スポーツで改善行動をしたとして、それをビジネスで運用するという内容をプロセス化する。
セブンイレブンでの商品開発の食感を数値化することや開発流通における温度設定などの管理プロセスによる改善行動を、木材提供などへの改善行動へプロセス化として利用する。

(必要かどうかは別です。)

 

抽象化した物事のプロセス化を応用しているという点では同じです。
ただ、人の心理学や行動経済学などを含めてスキーマの処理などを含めるとこの作業が通常の人が行うのは非現実的なケースもあります。


この内容が何かというと、
プロセス化において実学として社会で利用すること考慮した場合、どの学習内容でも個人の訓練次第でどれも「役立たせる」ことは可能です。
意識することの内容次第というのは誰もがいうことですが、「必要な学習」という内容も戦後に形成された内容と現状では、異なります。

私自身が保守的な部分もあり、すでに利用している指導方法を無理に変更していくことを受け入れがたいことも把握しています。
そのため、変化することに対して問題がないので変化しないのではなく、ある新しいカテゴリが発生した場合における優先順位を変更するプロセスが稼働するプロジェクトが必要になるのではないかと考えています。


これにはさらに一つのフローが必要で、自身の所持する感情と起きた出来事に対して区別して選択を行う訓練が必要になります。
スポーツやビジネス、個人の健康を維持する行動を良い方法があれば選択するというのは現実的でしょうか。

何が言いたいのかというと、良い方法を選択するには限定された条件が必要で、常に人は平均的で合理的な人ではないということです。
ケースによっては、常に努力をしている選手が監督の好みによって試合に出ていないこともある意味自然です。(プレーのセンスから親の関係など様々です。)
健康に悪いと知っていても日々のストレスで喫煙することの方が現実的な人です。


役立つかという議論が必要なのは把握していても、実際に行動に落とすことについては時間が必要です。
それを「才能がない」という形容の仕方で時には諦めることも必要ですが、私たちは常に良い選択ができるとは限りません。

言い換えると、
私たちの「合理性」は現在のコンピューターのように行動するかどうかの選択基準ではないのです。

そして、話を戻すとスポーツのトレーニングの選択基準の採用に効率性を持たせるのであれば、検証と採用のプロセスにおいて決定者のプロセスパタンから考える必要があります。

 

スポーツのトレーニングにしても、公共機関の学習内容も、
安定を求めることと、向上のために変化する基準を数値と感情として受け入れやすさから考慮した体験が子供の時に設計されるデータと妥当な基準を求めて、ようやくスタート地点となるのかもしれません。

チームにおける統制

チームにおける統制と態度の悪さについて教える側としては、教えるチームの統制を取れた方がいいものです。
そのため叱るという方法はとても有効に感じられやすいものです。

 

しかし、プレーヤーの態度の尺度を正す場合や気分が悪いために怒鳴るなどの強硬手段と区別がつきません。
選手が自主的に率先して行動する場合と恐怖を避けるために行動することも区別がつかないケースがほとんどです。


組織の統制のために叱ることも必要です。
暴力を利用していた時代は努力すればいい時代であればよかったので問題はありませんでした。
社会で生きていくためには、ある程度チームとのコミュニケーションを取れて計画された業務をこなすことで個人の生活が成立していた部分があったからです。
もちろん、継続することを忠実に実行することはかなり労力を必要とするため方向さえ間違えなければ相当な能力にさえなります。
ただ、検証と改善のフローが必要になることが経済が伸び悩んだために必要になったことは確かです。

そのため、「努力」自体の概念を変化する必要が出てきました。

しかし、これでは努力するはわかりません。

 

今度は当たり前のことを考えてみましょう。
スポーツに「考える」は本当に必要なのでしょうか。
考えなくとも勝てばいいということも間違いではないというのは私の持論です。

楽しむことがスポーツに必要ですし、苦しんでまでスポーツをする必要はありません。

また「考える」ことは必要だと色々なところで訴えてられているのですが、それを「考える」が考えられてないことも違和感があります。

 

それでも指導者の言うことを自分の行動へ変換して考えないとプレーは向上せず、プレーが向上しなければスポーツは面白くない

 

基本動作レベルまでは指導者によってある程度コントロールできますが、プレーの詳細度の概念が向上していくにはどこかのフェーズで選手自信が考えるフローへ移行することが必要になります。

 

組織が属している目的によって「考える」概念をどのように設定するかが必要なのです。

 

スポーツの組織の統制によく力を利用されていますが、スポーツをする動機が「技術の向上と組織の勝利」であれば力は必要がないでしょう。
殴るなどの制裁をするのであれば、試合に出さないや何かしらのペナルティを課せばいいので、もし力による統制をしているのであれば指導者の過去体験を継続しているにすぎないでしょう。


理想で現実のプレーヤーは態度を変えないどころか力による統制でなければエラーするということも言い分としてあるかもしれません。
もちろんその反論は必要なのかもしれませんが、脅威による思考停止よりも改善のプロセスの方が重要です。
過去に教えていただいた指導者で力による統制を利用している方もいましたが、練習が上達しない真面目な選手ほど効果がありませんでした。

もちろん例外と「真面目」のレベルによってこの内容は成立しません。
力による統制も実際の行動で言葉にしなければ、内容が異なります。

 

監督が教える内容の練習モデルを着実にこなしながら、理解の言語化とイメージの差でミスし生真面目だからこそ結果にならないというプレーヤーがいました。
遺伝子ではなく、指導者の伝え方や理解の過不足によって選手の向上が損なわれることは避けたいと考えながらも、現実は難しいなと考えます。
勝たなければならないという私立のスポーツ指導者の力によるチーム統制や、過去の方法を利用してしまうことも逆にそれは人らしさであり、急に変えろということは難しく現実として、誰かが犠牲になるモデルが必要だったりするのが現状だったりします。

 

それでも、半世紀のスパンから比べると力による統制が変化しつつある内容は希望だったりします。

 


チームにおける統制と態度の悪さの改善においては、感情を利用してチームを活性化することは必要ですが、それも使い所でどのようにケースで感情を排除した分析も利用し改善フローを用意するかが必要なのかもしれません。

 

 

成功率を高めることと目的への注意動作の設計

目的を意識的にもつことは重要という話を聞いたことがあるかもしれません。

進学、就職、業務、社会構成、地域におけるコミュニティ、目的における生産性の高さと意味付けによって
自分の生産性を高めることに役立つことは、その言葉の利用頻度のために無意識にさえ把握しているほどです。

 

例えば、英語を学ぶために海外に行くという目標があったとします。
英語を学ぶことだけで言えば、日本でも可能です。

滞在期間が短いのであれば、英語を無理やり利用する期間も短いので日本で外国人の英会話講師と交流をする金額とどれほど違いがあるのか検討が必要がかもしれません。

これは海外へ留学することが悪いという内容ではありません。
では私はなぜこんなにも否定的に考えるのでしょうか。

英語を学ぶ目的ということの前提は、英語を手段としていないということです。
英語を学ぶ目的の上の目標が、交渉や海外の人の価値観を把握して日本とビジネスに利用することなどであれば、言葉の概念から、イントネーションに関する解釈の把握、マインドなどの内容を把握して、それを利用する体験によって海外で学ぶ価値が発生します。
英語のみを利用する環境で英語を学ぶことに価値があれば、それは留学する価値がありそうです。

目的という言葉の概念をどのように定義づけるのかということは、フィードバックの材料にもなるため、
自分の優先度が高い目標であれば利用することが好ましいでしょう。

これは、普段の会話でも同じことが言えるでしょう。
では、この目的に関して詳細度を高めることに関与している内容は、どのようなことでしょうか。


それは普段の会話です。

 

 

例えば、バスケットでオフェンスをしているポイントガードがノールックパスをした内容に関して以下の言葉のやりとりがあったとします。

「あのパスがあったから、得点につながった」
「ノールックパスの前に選手が目と体でフェイクを入れて、他の1人の選手がフェイクになってそれで得点した選手がフリーになった。」

普段の練習で、どのように選手を把握しているかをコート上にイメージングして、それをどのようにプレーに利用するのかという発想へ思考がリンクしやくなることでしょう。
そしてこれがフィードバックへ繋がりやすくなります。

もちろん、無意識によってこれらができれば問題はありません。
私としても無駄なので、できれば言語化はせずに目標が達成できれば良いと考えます。

しかし、人はそこまで言語理解に長けているわけではありません。
私は中学時代に軟式野球をしていて50人という多い方の部でしたが、
レギュラーになっている人とそうでない人は、わずかな差でしかありませんでした。
バットのスウィング軌道が10cm前後の違いであったり、守備の動き出しの腰の位置の高さが異なっていただけです。

その習慣化の違いによってその後レギュラーで、自信がつき経験などでも差が出ていきました。

 


しかし、すべての目標において詳細度を考えることは現実的はありません。
私も無意識における処理の自動化を利用していくことの方が生きていく上で感情的な負荷が少ないと考えています。

それでも、僅かな差でスポーツを楽しめるのかどうかの差がでるのであれば目的の詳細度を今一度考える必要があるのかもしれません。