健康を維持するときに選択する基準についての考察

今日では色々な健康を目指すための文章を見かけます。
「〇〇ダイエット」や「〇〇健康食品」などのように色々な健康を願望とした文章を読むことができます。

ただ、結局は痩せようとする行動について考えると自分の意思を試すための試練でしかないように感じられます。
体脂肪を減すための知識は高校か中学校ぐらいの保険の教科書で基礎は学習します。

BMI指数などは聞いたことがあるのではないでしょうか。
【参考】厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイト



ですが、特に難しいことはあまり考えることはなく、1日に消費するカロリーと摂取するカロリーの和がマイナスになれば良いのです。

その目先の手段として、「〇〇ダイエット」や「〇〇健康食品」というモチベーション上げる道具を使うということになります。
こんなものは知っているし、私の行ったダイエットや運動方法は他のものとは格別に違っているという意見は、ネットだけではなく様々な箇所で見られます。
もちろん、テキストの文章に対して、自分の信念や感情の移入によって物理的な効果以上となるものは否定しませんし、
それで自分が望む結果になるのではあれば利用すべきででしょう。

では、次に例について考えてみます。
健康食品について選ぶ時はどのようにして選んでいますか。
では次に健康食品の選び方ではなく自分の基準について考えたことはあるでしょうか。

味覚を含めて自分が健康でいることが幸せになるのか、痩せれるのか、血糖値を下げるのか、炭水化物を控えることができることなのか。
仮に自分が選択した食品が効果のあるものだとして、それはどの程度必要で、どのような周期で摂取すればいいのでしょうか。

物理的に考えると以下が大まかなカテゴリーになるでしょう。
どのような栄養物質を補給するのか。
どのような方法で摂取するのか。
摂取するタイミングはいつになるのか。

シンプルに考慮した時、後は文章や写真、自分が持っている記憶のイメージなどで食品を選ぶことになります。
健康になるための選択は普段自分が考えない行動の部分をどのように意識化するのかが重要になるでしょう。
実際に自分が健康を保つために必要な栄養素やその摂取方法が何か知れればあとは、意思とモチベーションと習慣の問題になります。

現在ではかなり多くの商品があります。
その中にはあまり消費者に好ましくないものもあるでしょう。
ただそれは、騙されないようにするというよりは自分の判断基準を作り、それを守るためにどのようにしていくのか考えることが必要になるということです。

理想は、消費者の判断基準によって効果のない粗悪な商品選ばれず淘汰されるところにあるのでしょう。
ですが、この意見はあまりに綺麗すぎるかもしれません。
もちろん願望と行動は独立しており、意思を持ったから行動するわけではありません。
中には、1日の限度量を超えたアルコールを摂取して、健康を維持するためのランニングしているという人もいるでしょう。
また、自分に自信にとって有利な理由をつけることは、得意な人もいるでしょう。
例えばタバコを吸うことで健康を害することは知っていてもそれによるストレスで寿命が減る、
だから喫煙はしつつ健康を維持するという巧妙な理由付けなどで意思は簡単に変化します。

人は常に合理的には行動せず、制約のバリデーションのない意志もまた強固なものではありません。
このことを前提にした時、問題への解決策となる糸口は生まれるのかもしれません。
スポーツと同じで日々の習慣の連続でしか、より良い結果を得ることは難しいのです。
有名なスポーツ選手のプレーを真似してもそれを実行することは難しくコンディションを維持することを含め運動スキルを獲得した過程などから考慮する必要があります。
難しく考えすぎる必要もないとは思いますが、何か1つの行動だけで健康を維持できるというほど、私たちの体が簡単な構造だということも受け入れがたいものではないでしょうか。
理解はされたいけれど、私という人間はそんなに単純ではないというパラドックス的なものに似ているかもしれません。

健康を維持することに関しては、運動・睡眠・食事のバランスが大切になりますが、全て意識して生活することは難しいでしょう。
生活習慣を変化するには無意識への行動に変化させてから次の行動を獲得していくことになります。
スポーツでもこれは同じです。
意識下にある行動が無意識下へと変化することで次の行動獲得へと変化します。
テニスで言えば、最初はラケットでボールを返すことを目的しますが、それを無意識にできるようになれば、次はボールを相手が打ちづらい場所へコントロールすることに変化していきます。

結局健康を維持するのは普段の自分の行動を観察することになります。
よく有名な人が健康維持のためにしていることが取り上げられます。
それはその人の理論があり、努力の末にもたらされた結果ですばらいしいものでしょう。
これは私たちが「何を見ているのか」ということです。
私たちは何を見たのかと同じくしてどのようにしてみているのかも考える必要があるのかもしれません。

以上、健康を維持するときに選択する基準についての考察でした。

有名なプレーヤーが名指導者にならない理由の考察

結論から述べると感覚を磨くことと言語化することには、フェーズがあるから有名なプレーヤーが名指導者になれないケースがある
ただこれは人によってさらにカテゴライズされている。

物事を伝えるフェーズ状態は大きくわけて以下が考えられる。

・自分の運動を理解する。

・理解した運動の内容を一般的に理解できるように言語化する。
(理解できるような運動獲得の体験過程を理解させる)

・対象者となる人の言葉の概念などで理解しやすいものに変化させる。

・対象者が体験した直後に的確な言葉を理解しやすい形で提供する。


この4つのフェズ以外でも複雑化すればさらに多様なものにできるだろう。
伝える側だけの目線で考えた簡単なカテゴリーでも上記のようになる。

有名な選手が上手く他者へ運動感覚を伝えることができないケースはもちろん言語化以外にも理由がある。
遺伝的ないしは運動の獲得によって得た筋力及び腱付近の柔軟性が特殊であるために自らの運動を共有できないケースだ。
もし、スポーツ選手が他の競技者への指導で自分が成長によって得た体験を共有させたいのだとすれば、自分の運動の言語化は常に意識した方が効果的だろう。

もちろん、「相手にどのように伝えるのか」「理解できる言葉の概念イメージはどのようなものか」といったことも必要だ。
それはの言葉が相手に効果的なものになるには、場面と対象者の体験している内容によるからだ。
物理学者が使用する専門用語を活用してより詳細にスポーツ選手の運動現象を解説してもそれは他者が理解する体験にはなりにくい。
教える人は、対象者が理解できるレベルまで言葉を加工し、努力しても効果のない伸び悩んでいる選手に向上できるようなアドバイスとすることが理想的だ。

難しい言葉の方がより詳細に運動について理解を深めることができるものの、多くの人に支持される文章は読み手に負荷の少ないものだ。
これは現状の検索エンジンが検索する方法が得意でないユーザーに提供するコンテンツにおいて優しい文章になっていることに似ているかもしれない。
また、スポーツの指導において多くのコンテンツや指導方法がある中で、対象者の運動レベルに合わせて的確な指導方法を提供することはAIによって概念化されるのはまだ先の話だと考えている。


自分の運動現象を言語化できない場合は、他者に依頼することもスポーツ選手のマネジメント能力として必要かもしれない。
ただそれだと自分が伝えたいことを本当の意味で伝えることが難しくなる。
有名になった人の言葉がメディアを通すことによって自らが表現したい内容とは程遠いものになってしまうことに似ているかもしれない。

ただこのことは多くの人によって忠告されている。
本を読み自分の体験において言葉で共有する内容を広げることはたくさんの大人が「本を読むことがためになる」の1つの場面だろう。

だが、読み誤って欲しくないのはこの文章がトップのプロスポーツ選手が自分の運動現象の把握において言語化することをおろそかにしているということではない。
日々のコンディションの維持や加齢とともに変化するフィジカルのために解釈や見方を変化し続ける必要があり、自分の運動を言語化している時間はなかなか捻出することが難しいと考えている。

以前に理解したからといって、それを実現できるわけではないということを文章にしていた。
その逆もまた然りで、実現できたことを私たちは全て把握できてはいないということだ。
言語化することにも細分化すればレベルがある。
スポーツ選手の運動動作の言語化とは少し違うが、過去に話した人で相手が欲しいと考えているタイミングの情報を提供するスキルを持つ人はいる。
対象者によってパターン化している印象を持った。
それは営業、人材系の紹介のエージェント、カウンセラー、インストラクターなどはなし方やその内容は違っていても共通点があった。
相手によって自分の脳内におけるデータべーすから必要な情報を適確なタイミングで話せる共通点だ。
中には、それが苦手なのか自分の持っている情報を全て話そうとする人もいた。
それは、自分の主張したいことで相手に情報を整理させてしまう負荷が発生する。

自分の体験の言語化と相手に必要な情報を欲しい場面で提供できるスキルが名指導者の一部の条件なのかもしれない。

以上、有名なプレーヤーが名指導者にならない理由について考察でした。

生産性と練習による不安払拭


「練習をあれほどやったのだから負けるはずがない」という言葉は誰もが聞いたことがあるかもしれない。
試合で負けないためにメンタルの強化という意味で練習していることもあるだろう。
ゴルフであれば自分の得意なアプローチを試合で効果的なパフォーマンスにするために何度も入念に練習することだってある。
たとえ、それが原因で腕の関節を痛めてしまったとしても練習をしなかったことからの緊張によってミスするよりも後悔は少ないのかもしれない。
自分の納得のいく練習をすることがメンタル的にも安定してそれが一番良いのだろう。

だが、生産性という視点から考えると必要以上の練習は、パフォーマンスの低下につながる。
難しいのはこのライン引きだ。
自分の練習の成果が一番効果的な練習時間を理解しておかなければならないというのは効果測定について考慮する必要がある。
練習は嘘をつかないという言葉がある通り、いくら効果的に練習をしているからと言っても1日2時間程度の練習では、全国で勝つことは難しい。
私立などの強豪校などの多くが、通常の学生が勉強する時間を練習に使用している確率も高い。
圧倒的な量の練習は、質の高い練習を凌駕してしまうということもあるからだ。

さて、この議論については練習時間への価値観の問題をテーマにしているため、少し視点を変化させてみたい。
今までことから考えてみると人への練習効果は疲労と関連はしているけれども、メンタルの部分で補う部分が幅広く練習はするだけ効果があるというものになる。

精神的にメンタルの部分が、試合の結果に影響する部分は大きい。
だが、蓄積された疲労によって練習が意味をなさなくなる部分もある。
これらの前提から考えた時、試合で最高のパフォーマンスを発揮するにはどこまで練習すれば効果があるのか点を考える必要がある。

科学的に色々なことがわかってきつつある現在でも練習量の多い環境はどこにでもある。
休憩をこまめにすることで練習への効果などは上がってきつつある。
しかし、データは思ったほど少ない印象だ。
というのもこれまで練習を限界までしてきた昭和の時代から考慮すると1日における人の練習よる効果についてデータが普及していない。
このことは実はデータとして存在はしているけれども、確率的な部分も含めて私が探しきれていないだけかもしれない。

それでも野球では、海を越えた本場の国で球数を目安として投手の起用が行われている。
練習が原因で試合におけるパフォーマンス低下となるケースや怪我の防止のためだが日本ではまだ投げ込みによって練習している。
もちろん、どちらが良いかは価値観の問題に近く、議論よりも決断における要素がポイントだ。
高校野球の連投における美談のニーズから考えると球数制限がゲームのルールに加えられるのはまだ先の話かもしれない。

今回の内容はスポーツの練習における生産性についてだった。
これは練習における効果をいかに最大化するのかという視点で、仕事の効果をいかに最大化していくのかという思考の変化にもつながる。
具体化された例を抽象化して応用し、具体化することにあてはめる。
よく「ただやるだけの練習」と「意識する練習」は違うともいうが、指導者は練習の最後に少しだけ意識させるだけでも大きな違いになる。
社会でどのように使用するかをイメージさせる部分だけでも大きく違う。

例えば、野球の練習でタイミングをとる方法を個人で確立した。
自身の練習試合での打率を上げたことを監督に認められ、チームで情報共有した。
打撃練習でのヒット性の当たり数から練習試合での打率向上を考慮し、チームで全員がタイミングをとる方法を使用することになった。
これによって毎試合における得点率が、0.8点上がったとする。

あくまでうまくいったケースでしかないが、個人が方法論を確立し、マニュアル化した内容を社内情報として共有し利益を上げたことにつなぐことができる。
だが、これは評価されない場合もある。
会社の場合評価基準は組織で異なるからだ。

どこまで教えるのかは指導者によって異なるが、スポーツを利用して社会との接点を教えることはスポーツの価値を上げることができるだろう。
野球を例にしたが、野球はプレー人口が変化しサッカーよりも少なくなった。
どこにスポーツの付加価値を置くのかは各スポーツ種目それぞれだが、今後プレーヤーの獲得は人口減少が拍車となり難しくなるばかりだ。
スポーツのおける生産性の利用がスポーツの世界のみだけのものではなく、社会で利用できるものになればスポーツの価値は上がるだろう。
ただ、これは理想でしかない。
努力している指導の現場に生産性という言葉で考えるには抵抗を覚える。
このことこそ、生産性を低くしている原因の文化的な要素なのかもしれない。

 

また、練習における不安の払拭の代替案はメンタルトレーニングで可能にすることが科学的な進歩といえるのではないだろうか。
もちろん、無意識で動作するまで練習できなければ、勝つことが難しい競技もあり練習時間を短くすることが正義という意味ではない。
今のスポーツの世界は、明らかにやりすぎた練習で夢を諦めたアスリートの犠牲の上に成り立っているとも言える。
これが自分の知っていながらの選択なら後悔はないのかもしれないが、知識のない時点での行動は選択とは言い難い。
情報の認知によって少しでも満足のいくプレーヤーが増えることを願いたい。

 

 

以上、生産性と練習による不安払拭について考えたことでした。

スポーツにおける就職のアドバンテージが勉強を諦めることにはならない理由。

スポーツをしていた経験が就職に有利になることは問題がない。
スポーツができることを勉強のできない理由にしていいことに問題がある。

この問題についてはかなり部分的に考えることになる。
「勉強ができない」ということのレベルについて考えることが必要になる。
偏差値が60以上になることが必要となるレベルではなく、(もちろん学力偏差値があればあるだけ都合は良くなる)記憶する動作すら放棄することが問題だ。
スポーツができるため毎回の授業を聞いていないことは危うい。
記憶する動作に関しては習慣の形成等も考慮する必要があり、日常の姿勢は侮ることができない。

自己決定によって得意な分野に時間のリソースを利用することは選択として必要だろう。
先のことを考えた場合どれだけトップの選手になったとしても選手を終えたセカンドライフについて考慮する必要がある。
10年に1人か2人の選手にならない限りプロで40代・50代まで継続してプレーすることは難しい。

能力を最大限に利用することを考えるとプレーしていたスポーツやそれに関連することについて指導することが価値の高いサービスの提供になるだろう。
これは通常の仕事についても同じだ。
自分の経験を利用することが転職市場でも給与を下げない方法だということは理解しやすい。
スポーツについて教えることは自分の経験だけで勉強は必要がないと考えるかもしれない。
しかし、指導する場合に自分の感覚を的確に相手に伝える必要がある。
相手が理解できるレベルに情報を加工しそれを提供していき、相手が望む運動を獲得するプロセスを確立することになる。
また、食事や身体、生理学レベルの内容は把握してコンディションの維持などのアドバイスも求めらるケースもある。
個人事業主や経営者になれば、また違ったことを学習する必要があるだろう。

これまでの経験などを利用しないケースについて考えると、自分で学校に通うか企業が教育スパンを含めた雇用を決断し採用になるかのどちらかになる。
学校に行く場合はもちろん、企業の雇用になっても「学習」することになり過去学校で勉強したことや習慣が必要になる。
つまり、学生時代に勉強することは将来の行動形成や使用する知識に繋がっているとも言える。

もちろん、この意見は現状を正論化するための理想という見方もできる。
三角関数や科学の元素記号は学校卒業してから聞いたこともないという人もいるだろう。
それに加えて、学校の広告になるため毎日厳しい練習をしているのだから勉強が部分的におろそかになることもあるかもしれない。
だがどれほど勉強に関するシステムを否定しようが、現状偏差値による評価基準は変化しない上「学習」するという動作は社会人になっても必要になる。

一流のスポーツ選手について考えた場合、自分のコンディションを維持するために勉強している選手が多い。
プレーの向上のために様々なことを勉強している。
栄養士に食事を管理してもらっている選手も食品添加物において科学式から考えているわけではないものの、どんな栄養素を摂取するかについて試合後・試合前からトレーニング前後など毎日の食事について把握している選手も多い。
長くプレーしていく選手ほど自分の体の特性を把握し、それをトレーニングやプレーの向上のために利用している。
感覚的にプレーしている選手でも「学習」を利用することになる。
トッププレイヤーの中には、考えることなく体の反応で対応しているということもある。
しかし、考えることなくプレーをできるようになるまでの同じ練習を繰り返すことには、年齢とともに衰える身体のケアから微妙な変化への対応などを考える必要がある。
試合で考えないようにプレーできる練習設計を自分ですることを考えると勉強はやはり必要だ。

再現性のあるプレーを継続することには「学習」は欠かせないものであり、スポーツ選手は引退した後も結局勉強することは必要になる。
結果ばかりを求めらるスポーツにおいては指導者もスポーツについて理屈や学習などに関与しないケースもある。
脳内における勉強をするしないの判断は個人の自由だとしても、勉強をしなかった場合による選手のリスクは知る権利がある。
リスクヘッジのためにも学習することは必要だ。

以上、スポーツにおける就職のアドバンテージが勉強を諦めることにはならない理由について考えたことでした。

体験した出来事があるかないかによって人は理解のしやすさが異なるという現象。

一度体験したことでイメージがしやすいということは当たり前だという意見をもらいそうだが、
使いかたについて考えたことがあるだろうか。

例えば誰かに説明をする時に使用する。
テニスの初心者で野球をしたことある子どもについて、テニスのサーブの動作についての説明は以下のようにできる。
【説明】
相手プレイヤーに半身で左手でボールを上げ、タイミングをはかり野球のボールを投げる時の腕の振りでラケットをボールに当てる。
野球でキャッチボールを利用する時に必ずボールを投げる運動動作があるのでその体験を利用することになる。
ラケットにボールを当てる位置や面の微調整などは練習で感覚として覚えていくことが必要になるだろう。

過去体験の利用で言えば営業マンはクライアントの共感を得るために、なるべく共通の話題を利用する。
これは記憶の接続のしやすいものの方が理解への負荷が少なく親近感が生じやすくなる。
精神的共通点だけでなく物理的な共通点も信頼関係を構築することにつながっているからだ。

一度体験したことは脳内の記憶にアクセスするだけでいいということは理解しやすい。
では体験をしたことのない出来事の場合はどのように変化するだろうか。
自分が体験したことの近い記憶を探し、それを利用していることになる。
記憶の検索は負荷になりやすいという推論になる。

テキストの認知的な問題になるが、言葉へのイメージは強化されている方が連想されやすい。
テニスのラケットの振り方については、プロの選手の動画を見ていることでラケットの振りという言葉の連想は動画の内容で強化される。
もちろん自分でラケットを振る動作について体験したことがあれば、自分がアクションしたことのある動作の方が連想しやすくなる。
だがそれは頻度やイメージの動機付けなどに左右されるため絶対とはいえない。

イメージへの接続が強化されると理解することへの処理もスピードが上がる。
このことから考察できる2点の重要なことがある。

体験していない出来事による説明や会話については、体験したことのある人との理解の差ができる。
体験した出来事がない場合の理解においては自分で理解するフローを用意する訓練が必要になる。

この言葉だけを聞いていると何を細かいことを言っているのだろうとなる。
だが塾や学校の先生、上司による説明などの場合で考えてみてほしい。
そしてそのことが連続するとどうだろうか。
学習における記憶の差に記憶する出来事と関連するイメージとの紐付けなどが効果的であることは聞いたことがあるかもしれない。
つまり、同じ時間で同じテキストの認知処理をしていても記憶する内容は異なっているということになる。

この例は学習についてだが、スポーツにも部分的に同じことが言える可能性がある。


このことはあくまで考察に過ぎない。
また、先生にたとえ話や例について質問して授業を止めることができる人もいればできない人もいる。
上司の説明を例え話の時にその都度質問に時間を使用することも難しい場面もある。
重要なのは、理解のしやすさが異なることを知っていることにおける努力の工夫になるだろう。

以上、体験した出来事について考えたことでした。

グレーゾーンを考える能力をどのようにして鍛えるか。

言葉の概念は厳密には一人一人違う。
イメージや体験した事象、知識などから言葉を解釈するためだ。
例えば、日本について所持している情報の少ないイギリスに住む人と日本に住む人で寿司のイメージは違っていることが
多い。
海外に住んでいる場合唐揚げやアボカドを巻いている巻き寿司のことを連想しやすい。
これは海外のお寿司屋さんで体験していることをベースにし、過去の記憶にアクセスして「寿司」という言葉を連想しているためだ。
分かりやすいように海外の人と日本の人を例にしてみたが、同じ日本に住んでいる人でも言葉の概念は違っていることが多い。

所持している情報と比較して異なり、同じような情報代替案とも違っている場合受け入れることが難しいことがある。
思考の多くは0か1かの判断になりやすいからだ。
認知的は負荷をかけないようにしている人の習慣と考えることができる。
人の処理機能的な部分もあるが、これは訓練で変化することができるだろう。

言葉の概念は詳細まで理解すると自分の理論と相手の理論の共通点があり理解できることもある。
言葉の概念について言えば理解するコストを消費すれば、思想などの違いがない限り理解することは可能だろう。

これについてはスポーツの指導のケースでも利用することができる。
教える人の言っていることを実行しても結果にならない場合、指導方法が悪いと考えるケースがある。
このことは、指導されてから長期間試している場合自分の決断の問題になる。
今回は指導者から助言されて3日程度経過していると考えてほしい。
3日試してみてその練習方法が自分には効果がなったと判断することは情報が不足していると考えられる。
自分の運動特性や能力(速筋などの筋力レベルから運動のイメージを利用しての再現などいくつもある。)、理論の把握などから自分にとって無駄な練習とするには検証情報が少ない。
指導内容を理解して検証した結果が好ましくない場合、厳密に指導されている言葉の概念を確認する必要がある。
このことには以前にも述べてあり言及しない。

自分にとってスポーツで好ましい結果を望む場合、時間というリソースを使用して0か1かの判断ではなく、グレーゾーンについて考えてみることになる。
言葉の概念が違っているという場面はよくある。
子供の野球の練習で教わった通り規則正しい「ダウンスウィング」をしてしまい、ゴロしか打てない打者などは典型的な例だ。

さてここで理解したいのが、「考える」という言葉の概念についてだ。
スポーツでもどこでも「考える」という作業は発生する。
中には自分の運動特性を考えることなく教材のパッケージだけ実行して試すことだけが「考える」ということにしている場合もある。
教わった通りに継続して実行することもかなり優れた能力だが、程度の差はあれど「0と1の間の0.5について考える」ことは必要だ。

バッティングのダウンスウィングについて言えば、指導された練習パターンを試すことは実行していることだけだ。
もちろん自分のスウィングの軌道修正が目的ならば繰り返すことも必要だ。
しかし、教えられたダウンスウィングで結果にならないのであれば、「ダウンスウィング」について考える必要がある。

もし、指導者の教えられた通りの練習をしていて、結果になっていなければ以下のことが考えられる。

・練習の形は問題ないが、試合の結果につながるように意識して練習していない(練習のための練習)
・指導されている言葉の概念を間違えて理解しているため、結果につながらない練習になっている。
・自分の運動特性が邪魔をして、成果につながる練習になっていない。(指導された練習内容を正確に実行できない。)
・問題点が別の場所にある。

練習課題がダウンスウィングで最初の練習の形だけ真似ている場合には誰が見てもわかる規則正しいダウンスウィングになりやすい。
練習のパッケージをすることだけが目的になるのではなく、自分の成果にどのようにつなげていくのか考えた場合、ある仮説ができる。
ダウンスウィングにもレベルがあり、球種とコースによって変化させる必要があるのではないかという仮説だ。
もちろんこれは都合の良すぎる回答だ。
教えられた通りに練習ができる運動能力と問題への理解力があり、問題点がスウィングの軌道にある場合だ。
そのためこれはあくまでケースであり、練習の実行における結果の評価は詳細まで考慮することが必要ということを理解してもらいたい。

詰め込みで教えることが問題で考えることが重要だという意見が世間には浸透している。
そしてそれはどこでも聞くことのできる「考えることは大切」という言葉になっている。

しかし、考えることは大切と言っておきながら「自分で考える」という処理ができてしまいつつある。
考えることを教えるというのは「考えましょう」という処理を子供におしつけることではないということだ。
もちろん最初は、自力で考えることについて挑戦することも必要だ。
だが、考えることの概念について理解することを自分が生活していく中のどこかで幸運に身をゆだねて手にするというのは、言葉を知っているだけで理解していない。
人が知識を形式化し共有しやすくして今日のIQの高さになったのは、概念を定義して広めたからだろう。
ただそれも毎日の小さな連続で積み重ねてできたものだ。
わずかな思考の変化の連続にこそ価値があるという見方もできる。
今もこの瞬間もである。

今回のことが考えることについて自己概念化する機会になれば幸いだ。
あくまで機会であってこのことが思考の全てなどと言うのは過言だろう。
0と1の間について考えることは機会の1つでしかないのだ。

以上、グレーゾーンを考える能力をどのようにして鍛えるかについて考えたことでした。

スポーツを教える人の課題が試合による選手起用と育成マネジメントのみになるという理想

現在では様々な学習コンテンツが用意されている。
知りたいプレーの動画など検索することでおおよそ確認することができるようになった。
もしくは、結果を残している人のプレイしている動画について確認できる。

これよりもIT技術が進歩し、学習コンテンツがより良いものとなった場合、
スポーツのスキル向上には効果的な学習コンテンツの提供ができると考えることができる。
一部の人が理解していればスポーツは指導の細部まで理解している必要はないのではないだろうか。
運動技能の向上において言語化能力は欠かせない。
現状の部活動のシステムでは、スポーツをしたことのない部活の顧問になることもある。
このことは多くの人が認識ている問題ではあるものの、システムの代替案における意思決定すら難しい状態で、解決にはいくつもの実験的なシミュレーションをする必要があり時間がかかりそうだ。

現状の状態でできることはプレイヤーとコンテンツのマッチングをどのようにしていくかという部分にある。
効果的なコンテンツの提供ができれば、指導者の今後の問題は試合においての選手起用と育成マネジメントが主軸になる。
指導方法まで理解することなくチームを率いることができるのだ。

ただし、効果的なコンテンツの提供ができればの話だ。
難しいのは、プレイヤーの状態の把握になるだろう。
関節の可動域、筋力の強さや柔軟性、運動獲得から運動再現の誤差修正能力など評価されるカテゴリーの決定が必要になる。
プレイヤーの状態を的確に把握し、提供された情報によってメンタルモデルや動作反応、癖などを補いプレー改善のコンテンツが提供されることにつながる。
それをシステム化し実現できなければ選手の育成の問題をマネジメントのみにすることは難しい。

コンテンツの提供による運動技術向上には、「問題の把握」と「解決動作の実行」が的確になされる必要がある。
問題の把握は、運動動作のデータ化と動作比較などのIT技術などでクリアできる問題ではあるものの、解決動作の実行の修正が難しい。
ここで懸念されるのは指導者と選手自身がわからないことがわからないという状態になることだ。

良質な動画のコンテンツを見本にして動作検証する時のことを考えてもらいたい。
アドバイスされた通りに運動してもそれが検証対象の動作か確認できない場合がある。

様々な要因が考えられ、以下は例だ。
・運動の経験不足に関する問題
・筋力レベルの問題
・フィードバックのカテゴリー不足に関する問題
・言葉の概念の違いに関する問題。

野球のバッティングの場合に関する内容で言葉の概念について考えてみる。
アプリやコンテンツなどを利用してわかったバッティングの問題点はインサイドアウトの動作をできていない点という指摘があったとする。
(この問題把握もかなり高度な技術なのだが、指摘が可能だったと考える。)
インサイドアウトについてはバットにおける軌道の問題で改善された運動をイメージしてプレーしても改善されないケースがある。
これはインサイドアウトという言葉の概念が違うためで、インサイドアウトをできている選手の言葉の概念と比較し、自己の言葉の概念から検証する必要がある。
自分が考えている言葉の概念について再考する機会とする。


これまでのことを考えるとスポーツの指導者が練習の細部を理解せず、育成マネジメントのみになるというのは現実的ではないだろう。
それでもIT技術は進歩し、VRを利用してジムでサイクリングするなどの活用方法など模索されている。
運動動作の解析で、VR技術によって真横からだけでなく上部などから動作確認できれば、脳内におけるシミュレーションでのイメージは変化する。
有名選手から過去の結果の良かった自分のデータまで比較ができればいいが時間が必要だろう。
急な大きな変化は見込めないかもしれないが、小さな変化の連続が毎日起き、今後のスポーツにおける技術の向上を願いたい。

以上、理想について考えたことでした。