人の認知動作が完璧でないことを知る価値

これまでどのようにフィードバックされることが望ましいかについて述べてきた。
ただ、1つの方法論については限界が存在する。

何が言いたいのかというと、認識動作そのものが完璧でないことを知ることでフィードバックの方法について考えることになる。
自己のメタ認知そのものについて考え、対応することへつながる。

これまで考えてきたことはある一種の対応方法だった。
ケースによって対応方法を考えていくことが必要だ。
人の体の構造を理解した上で改善していくメリットは確認カテゴリーの形成が容易になることにある。
そして使用する改善方法の本質を理解しやすい。

多くの人にとって事象を把握して改善することは毎日のように行われている。
人の認知システムそのものについて言えば問題のないように考えられるが、認知システムが完璧ではない点というのはどのような部分だろうか。

それは、人の認識によって形成されるイメージは補われるというところにある。
外界の情報を受け取る感覚器官については義務教育で学習したことだろう。

視覚からの情報は8割を利用している。
角膜やガラス体を通り網膜に光が届く。
その光を錐体細胞と桿体細胞という2種類の光受容体細胞が受けることになる。
そのあとは視神経などを経由して視覚皮質へと情報が送られる。

これらの複雑な過程によって外界から受けとった光の情報を私たちは処理しているが、外界の情報を完璧に処理できているわけではない。
例えば、以下の図のように完全な文字の画像でなくても、何が書いてあるのかを把握することができる。

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「アルファベットのA」テキストがあるとさらに認知しやすくなる。
私たち自身の視覚の情報は補われて処理されているということだ。

このことからスポーツのパフォーマンスを視覚で確認するとした時に完全に自分の運動を把握しているとは考え難い。
自ら運動している途中で、自分の動きを認知している時も視覚や所持しているスキーマで脳内に送られた情報は補われている可能性が高いからだ。
もちろん注意できる容量を限定して動作の認識をすれば部分的にある程度まで把握することは可能だろう。
それでも人の視覚処理機能の観点から考えた場合、自分の動作を完全に把握しているとは言い難い。

また、以前にも述べた視覚における事象の把握には注意の動作として限界があるということも理解しておきたい。
注意の機能は、「集中的注意」「選択的注意」「分割的注意」「予期・期待」の4つに分類できる。
スポーツなどの動作確認などについては選択的注意を利用しているが、確認した内容における運動動作の確認については他の注意の機能も利用している。

自己認知が完璧であることを前提の場合、悪い要因として考える対象となるのは方法のみになる。

しかし、認知が完璧でない場合においては改善カテゴリーへ以下3点が含まれるようになる。
・運動動作をできる限り正確に認知をできているか。
・把握した動作を自分で実行する場合について実行した内容のズレは極力少なくできているか。
・これまでの経験のデータと比較した時、認知の限界によってのエラーかどうか。

この2つの確認は自分が変化することによって問題を解決するということにつながりやすい。
方法論のみに依存したフィードバックは、外部要因のみを改善の対象としやすくなるからだ。
自身の把握機能の改善を目的とするのは、内部要因に問題解決のポイントがあると考えることになる。
人の認知動作が完璧でないことを知ることは謙虚さと呼んでもいいのかもしれない。

ただ、問題解決の要因としてはバランスを考えた方がいい。
「客観的に考えること」における因子は内部要因と外部要因を含めるもので、どちらか一方であるケースは少ない。

ここまでのことをかなり簡単にまとめると自分の認知していることは事象の全てではなく、問題解決の視点には外部要因と内部要因から考えた方が良いということだった。

人の認知動作が完璧ではないことを知っていても、働いている限り常に改善することを求められ、
結果的には必要性を感じないかもしれない。
また、認知システムは個人個人によって処理機能も異なる。

アドバンテージとして考えられることは問題解決カテゴリーの抽出に情報を利用できることにある。
このことは私たちが問題解決における思考を飛躍して利用できるようになったことも関連してくる。

以下の記事を確認してほしい。
http://blog.tinect.jp/?p=41430
「分類や、推論といった、抽象的な思考を使うことに慣れた」とある。
このことは学習における発展と習慣によってもたらされた事象という見方ができる。
それであれば、認知動作が完璧ではないと知ることで改善策の思考における変化が生じることになる。

これもある意味では完璧なものはないという抽象的な思考を人の認知能力のケースで考えれるようになった結果なのかもしれない。


以上、人の認知動作が完璧でないことを知る価値について考えたことでした。

スポーツニュースとプレースキルの向上

ニュースのスポーツコーナーで元トップ選手が解説をしていることは多くの番組で見かける。
過去に活躍していた選手を見たくて見ている人もいるかもしれない。

最近の内容は、誰にでもわかりやすいようにしようという工夫が感じれるものが多い。
人気スポーツのサッカーや野球などについては、あまり詳しくない人でもわかるように解説している。

中には、とても技術的なものについても取り上げているものもあり、初心者にはわかりにくいだろうなと感じるものもある。

それを感じたのが、水泳の内容だった。
背泳ぎの選手について解説していたのだが、バタ足の位置が比較した選手よりも水面付近になっているという内容だった。
そのために他の選手よりも体が水面上に出てきていた。

結論からすると水面付近に体を浮かせることができるように泳げると速くなるということになる。
だが、これを方法論として真似ることは可能なのだろうか。

比較内容は、筋力レベル・泳法・骨格・パフォーマンス中におけるペース調整のメンタル状況などが考えられる。
筋力だけで言っても体幹を含めた泳いでる途中の姿勢維持から、筋持久レベルの強度など様々な内容が挙げられる。
難しいのは、スポーツニュースだけを見た時に水面付近でバタ足を意識することで背泳ぎのスピードが上がるという解釈をしてしまいやすいということだ。
最初に述べておくが、スポーツニュースで少し複雑な運動のコツを紹介することが問題とは考えていない。

スポーツの見る側が多面的に考えることがポイントで向上における要因は様々に考えることができる。
もちろん、1つのポイントの改善によって異なった複数の悪かった点が改善されるということもある。
この場合把握しておく必要があるのが、改善される前と改善した後においての比較が必要になる。
水面付近におけるバタ足による意識によって、自分のフォームや筋力にどのような変化が発生したのかを把握するのだ。
それが今後の課題の把握につながるだろう。

私たちの注意できるリソースは限られているため、無意識に運動動作を行えるようになるまで気の遠くなるような修正作業が発生するかもしれない。
認知的なレベルで考えるといかにして、社会的認知から物理的な思考に変化できるかにある。
スポーツのニュースでは、有名な選手が多いことから欲求、期待、価値、態度などよって伝える側の過去に影響される面もある。
つまり、「何を言っているか」よりも「誰が言っているのか」が重視されやすくなってしまっている。
もちろん結果を残している選手であるため、期待できるアドバイスも多い。
ただ、有名選手の言葉を自分にとって有効なものにするためには、自分の体験で結果になったことと比較して、向上するための材料にしてくことが必要になる。
有名な選手の言葉を解釈することによって、自己の言葉の概念の意味と照合し理解する。
理解した内容を自分にとって有効な運動動作のイメージへと変換していくことになる。
だが有名なスポーツ選手の言葉も使い方次第ではただの言葉にもなってしまう。

スポーツのニュースの解釈は楽しめれば良いという人からちゃんとした解説までしてほしいという人まで様々だ。
事実だけを伝えるニュースにはそれなりの役割がある。
日本のニュースがスポーツにおいて詳しくなっているのはそれだけニーズがあるからで、それが文化的な部分で根付いているからだろう。
スポーツのコンテンツ消費者が言葉の概念理解をより具体的なプレーの楽しみ方をすることで10代の選手の意識も変化するのだとしたら、新しいプレー向上の関与となるのかもしれない。


以上、スポーツニュースの解説への解釈について考えたことでした。

メタ認知とヒューリスティックス

行動の改善において重要な役割となるのがメタ認知だ。
メタ認知をかなり簡単に言うと「認知についての認知になる」。
つまり、自身がどのように学習しているのかというプロセスを考える手段にもなり得る。
メタ認知的活動としてのモニタリングには認知についての気づき、感覚、予想、点検、評価などが含まれている。

例えば、ゴルフのスウィングの飛距離を伸ばすことについて考えると練習をすれば良いという処理になりがちだ。
だが、飛距離をどのように伸ばすのかで練習方法も変化する。
目的に沿ってマネジメントされていない練習をしていては、非効率な練習になる。
狙った場所へボールを打てる飛距離の向上となった場合、アウターの筋力だけでなくインナーの筋力の向上も必要になるだろう。
ゴルフにおけるスウィングの癖や体格、プレイスタイルなどでどの程度でどの部分の筋力を向上させるかが決まり、変化させる箇所を決定する。

このようにメタ認知のコントロールには、目標設定、計画、修正などが含まれ行動の改善に必要になる。
メタ認知的活動は無意識の状態でも行われることもある。
そのため、必ずしもメタ認知的活動が思考や話し合いの対象とはならない。
だからこそ、トッププレイヤーの中には他人へ自分の成長した過程を説明できないケースもある。
これは、自己における行動修正が意識下によるものではないため、改善フロー1つ1つを定義化していないことが理由とも言える。
名選手が名コーチにならない部分の理由の1つなのだろう。

学習行動においてメタ認知的活動が重要な役割を果たすことは理解できる。
メタ認知の活動が正確できていれば、私たちはエラーを起こすことはないだろう。

エラーにもポイントがある。
それは、知覚、解釈による処理、実行のプロセスにおける部分だ。
とくに処理における部分のエラーについては致命的なものがある。

それはヒューリスティックスについての問題解決機能が要因となりやすい。
しかし、認知におけるスキーマスクリプトによって形成されているヒューリスティックスがヒューマンエラーになりやすいのは限定した部分で許容する必要がある。

ヒューリスティックスは、問題解決において過去に経験した手続きのことを示しており、認知容量を使用しないものが多い。
人は問題解決においてヒューリスティックスを使用しやすいのだが、これについては通常の作業処理を行う場合非常に役立つ。
間違ることのリスクを背負ってでも私たち自身はヒューリスティックスを使用した方が快適に生活することができる。
そのためヒューリスティックスのリスクを理解して処理を継続するか、処理によるエラーのポイントとなる部分へあらかじめ対策処置を行うことになる。

これまでのスポーツにおける指導で、体罰などを利用してきたことにも同様に理由が言える。
一度成功した指導方法の処理(ヒューリスティックス)が間違いだと指摘されるまで利用してしまったのはある意味人の惰性なのかもしれない。
現状の人の処理における簡略化のためにヒューリスティックスが利用されることは、前提として理解しておくことが必要になる。
全ての事象や物事において何度も時間のかかる処理を継続していくことは認知的な負荷がかかるからだ。
だとすれば、私たちは自分自身の評価と判断の基準において確認する術を所持することが必要になる。

メタ認知が重要ということは、多くの文章によって知ることができる。
その理解があれば次は、どのようにメタ認知を設計していくのか把握と検証からの改善行動がポイントになるだろう。

以上、メタ認知ヒューリスティックスについて考えたことでした。

パターン認識と人の行動変化のトレードオフ

私たちは行動の認識に慣れが発生する。
これは順応の類であり、必要な問題に処理能力を使用するために必要な能力だろう。

一度覚えた行動はパターン化し、動作認識を簡略化することで行動の効率化を促進したとも言える。
ある動作を速くしようとすればするほど、行動の確認点を少なくして無意識にアクション出来るようにする。
パターン認識する過程は、脳内に構成されたパターンの内部表現と入力情報とのマッチングとしてみることができる。

行動を自分にとって都合の良い方向に変化させたい場合私たちの認識から変化させることが必要になる。
自分が所持しているイメージもしくはスキーマを変化させ、内部表現を変化させていく。
私たちが一度学習し認識スピードを上げて、無意識化において処理される過程を見直すということになる。

この無意識化した行動フローを変化するには認知的な負荷が発生する。
煩わしい再認識のフローによって確認する必要がある。
振り込めサギ対策などに例がある。
(銀行の振り込みの画面などに1つの確認フローが設けられている。)

私たちは一度覚えた行動を変化させたい場合、行動を変更させる働きかけの努力よりもフローを追加することの方が有効なケースがある。
問題は、努力で変化させようとするには膨大な時間が必要になることにある。
一度学習した動作を変化させるには多くの時間と不快な感情が発生することになりやすい。
なぜ、不快な感情が発生するのだろうか。
自分を改善し、成長していくことは好ましい変化と認知されやすく、望ましいと考えらる。
とするとだ。
では、改善において、私たち自身が好ましく考えていない場合があるということになる。
ここで重要なのが、学習して無意識化した行動を再認識するというフローの発生だ。
そもそも、人は認知的負荷を嫌う傾向にある。
"cognitive mizer"(認知的ケチ)という言葉があるほど、脳は処理機能を簡略化するようにしている。

このことから考えるとイノベーションが望まれる社会構造は幻想とも考えられる。
一度学習した行動の変化には、自分の行動を見直すという作業が発生している。
イノベーションを受け入れるための学習行動そのものが負荷になっているという見方ができる。

個人における行動変化が望まれているという解釈自体が最近のメディアにおけるイメージの形成なのかもしれない。
変化に対応こそすれ自ら好んで変化していくのはオピニオンリーダーなどの少数だったという見解だ。

しかし、これは極端な見方であって他の考えた方もある。
変化は必要だと理解している状態と、変化する行動をすることには大きな溝があるということだ。
理解しているから行動しないということは、多くの健康に関する問題が証明している。
アルコールや大量の脂肪の摂取は健康をに悪いと知りながらもやめれない人が大勢いる。

「変化する」ということについて述べたが、人の行動におけるパターンの認識を変化させることは望みにくい。
それは認知的な負荷がかかるためということだった。
変化して得られる期待値は願望として所持しつつも、変化する動作そのものには負荷が発生している。

パターン認識は情報処理の軽減に役立ちはするものの、行動への変化に負荷を生じるものとなりトレードオフの関係にある。
パターン認識よる動作効率の向上はメリットもあるが、行動の変化へのリスクも発生している。
これもまた、自分の選択における習慣よって形成されるものなのかもしれない。

以上、パターン認識と人の行動変化のトレードオフについて考えたことでした。

PDCAサイクルが0から1を生み出せない場合。

簡単に述べるとPDCAサイクルの前提に関する内容だ。
PDCAサイクルは目的がはっきりしている場合に利用されることが多い。
行動の改善の場合だ。
PDCAサイクルと新しいものを生じる(つまり0から1を生み出す)発想の前提そのものは違っている。

0から1を生み出す場合必要になるのが、アイディアの数になる。
無数の点と点を繋げていくことで形にする。
例えば、バッティングで新しい打法を考える場合の思考について考えてみよう。
バットの位置、形の開き具合、骨盤の位置、スタンスなど複数のカテゴリーがバッティングの構えとして存在している。
ここからモデルとなるイメージを作ることは自身の記憶を利用することが多い。
仮に、バットの位置をバリーボンズ選手で、肩の開き具合をイチロー選手にしたりと言ったように組み合わせていく。
自身の記憶となっているイメージをそれぞれつなぎ合わせていく。
もちろん最初はバッティングフォームもバラバラでちぐはぐかもしれないがそこからPDCAサイクルを使用して修正していく。
課題の抽出方法そのものだけを考えるとブレインストーミング法が近いだろう。
新しい発想のフェーズそのものがPDCAサイクルを利用していないという言い方もできるだろう。
プランニング次第ではPDCAサイクルも新しいものを生み出す部分があるという見方もできる。
そのため、プランニングという言葉の定義によってPCDAサイクルが改善行動のみになる場合があるということになる。
これは人の情報処理の過程について考えることになりそうだ。
計画を立てる場合において個人によって思考フローが異なることは理解できていることだろう。
これについては職務設計などが関連してくる。
通常の職務における課題解決でどのようなプラン二ングをするのかという点が言葉の定義に関連してくる。
問題の解決モデルをどのカテゴリーレベルにまで細分化させるかという点がポイントだろう。
先ほどのバッティングで新しい打法を考えるということについて考えてほしい。
カテゴリーが複数存在し、それによってモデルの形成を変化させていたのが上記の例だった。
その例におけるカテゴリーを少なくして、1995年時点イチロー選手の振り子打法のみを採用するかどうかという点に変化させることもできる。
人の注意できるリソースには限界があると考えると問題解決までの期限がない場合に、新しい打法を考える時、カテゴリーを増やすことは望ましくないだろう。
注意の容量の限界は生体が一度に処理できる情報量に制限があるために生じるという見方がある。
注意のフィルターモデルがそのような考え方に立脚している。
注意の機能的な意味をどのように捉えるかについては現在も様々な角度から検討されており今後も着目したい。

問題解決における思考のパタンをシンプルなもので採用し続けるか複雑なものにするかの違いは習慣になると大きな差になっていることがある。
もちろん、これはどちらが良いかというよりも問題解決に使用できるリソースで使い分けることが望ましいだろう。

PDCAサイクルは、改善するために利用されることが多いのは、その思考モデルそのものが改善フローという前提にあるからかもしれない。
プロダクトの改善を得意する場合、PDCAサイクルにおける思考作業の連続が要求される。
このことが新しい発想とは別の思考フローであるならば、私たち自身が思考を利用するフローの変化が必要なる。
何が述べたいのかというと、0から1を生み出す思考フローと改善の思考フローが異なる場合において、意識する内容を明確化する方が好ましい。
あくまで検証することが必要になるが、考える内容をフロー化することには整理する作業が発生する。
これを意識化しないで、毎回同じ整理作業を行っていると時間が必要になる。
慣れによる作業スピードの向上を望むにしても時間がかかるだろう。
思考フローの意識化は脳内の思考処理速度を習慣化してスピードの向上を目的とする場合有効だ。


これらのことを考えると0~1を生み出す作業そのものには習慣と関連があり、日本人がイノベーションを生み出すことに苦手な要因の1つと見ることもできる。
理由は様々で、学校における学習の機会から文化的な部分から発生する習慣の違いなどが考えられるがこれは今後の研究の進展を待つしかなさそうだ。

PDCAサイクルが新しい発想を生み出さないという位置付けでならば、私たち自身が新しい発想を生み出す思考フローを明確にして利用するだけのことだ。
もし、PDCAサイクルに新しい発想を生み出すことを期待していたのならばプランニングの定義を再構築する必要がありそうだ。

以上、PDCAサイクルが0から1を生み出せない場合について考えたことでした。

自分の動作の理解には限界がある。

最初に述べておくが、限界を理解することと能力のギリギリまで理解する努力をすることは違う役割がある。

簡単な動作も訓練しなければできないことが多い。
例えば直立不動の体制から地面と平行に両腕を上げるという動作はできるだろうか。
私は実際にしてみると、若干腕が上に上がってしまっていた。
簡単な動作でも自分の感覚を重視して行うことで実際にはズレてしまっていることがある。
何度か訓練することで両腕を地面と平行に上げることが可能だ。
これが意味するものは感覚のみのチェックで行う動作は、一定の維持をさせることが難しいということだ。

感覚のみで確認・検証することは過去に結果を出した動作と同じことをしているつもりでも、違う動作になっていることもある。
(スランプの状態に近いケースもある)
だからこそ、動作の検証には自分以外の客観的な部分が必要になる。
客観的になってチェックすることが必要だという話は良く聞く。
これは自分の記憶、思考、解釈、判断などがバイアスの影響を受けているためだ。
もちろん中立の考えを持っていて自分の理解する動作フローが正常に働き、公正な判断ができる人もいるだろう。
それは部分であって全体とは言い難い。

だからこそ動作へのズレは誰でも発生する。
プレーヤーは一度成果を出したフォームを再確認するフローが発生することになる。
これは練習で調整することが必要になる。

この場合使用するチェックリストをどのように定義するかということがポイントだ。
水泳の自由形であれば、腕をかく場合の腕の入水角度や、顔の上げ方や足の動きなど様々な箇所があげられる。
自らで運動の改善できる範囲によってチェックリスト化することが重要だ。

ただし、チェックリストも使用できるのは、チェックリスト作成時の状況を維持できた場合のみ有効だ。
どういうことかというと成長期や加齢による筋力の衰退などによってチェックリストが使用できなくなるケースもある。
これはプラスと考えられる肉体改造の場合にも同様だ。
運動獲得時の動作の筋力の状態は、肉体改造後とは異なる。
当たり前のことを述べているが、筋力の重さが加わった分運動時にかかるコリオリ力が変化する。
筋力の重さが加わった分の調整が必要になるだろう。

自分の状況が変化すればそれだけチェックする部分も変化する。
大幅な肉体改造がうまくいかないケースは体の状態が変化しているにも関わらずチェックポイントが変化しないためと考えられる。

自分の動作の理解については、運動の内容ばかりを気にしがちだ。
しかし、自分の状態についても把握しておく必要がある。
筋力の低下から、疲労の状態に至るまで状況の把握も多岐に渡る。
自らのコンディションが良い場合と悪い場合ではフォームの確認も変化することが前提になっている必要がある。


自分を理解することの限界の把握が、自分を理解することの一歩目なのかもしれない。
ここで疑問になるのが、限界を把握することで成長が鈍化する可能性のことだ。
自分の限界を設定していることが、自分の設定した能力以上のアクションをしないということにつながるからだ。
しかし、どこまでが自分の限界なのかという点を把握していることは挑戦するラインを明確にすることにもなる。
挑戦も無意識化している部分を意識してみると自分の違った側面と向き合えるのかもしれない。

以上、自分の動作における理解の限界について考えたことでした。

スポーツにおける情報収集とその判断材料

検索をすれば、ある程度それらしい情報やコンテンツを見ることができるようになっている。
しかし、学校では情報などを選ぶことについての学習をする機会が少ない。
コンピュータウィルスのことやネット上には間違った情報があり、すべて信じるには危険だということなどが学習内容だ。
そして上位に表示されている内容が的確なのかどうかという点は、初心者には見極めが難しい部分がある。
最近のSEO事情からするとかなり改善はされているものの、まだ検索した情報がすべて信じられるものではない。

そこで考えて欲しいのが、どの情報を判断する基準にするかについてだ。
大きなカテゴリーは以下になる。

1、情報が伝えている内容
2、どこの組織が情報を公開しているか
3、どのような人物が情報を伝えているか
(所持している資格が重要かも考える。)

この3つが大きなポイントになるだろう。
情報が伝えている内容については、自分で判断するには難しいものもある。

体に関する情報については必ず専門の方に確認することが望ましい。
給水するのに、スポーツドリンクはどのようなものが適切かなどはその時のタイミングで自分で判断することが要求されるため、
学校の保険の教諭など、専門の人に確認することが望ましいだろう。

プレーに関しては、自分が理論を把握できるものが好ましい。
というのも練習で実践する時に自分でフィードバックすることが簡単だからだ。
また、理解するのは難しいものの指導者の考えと一貫しているものが好ましい。

どの組織が情報を公開しているかについては、指導者に確認することが望ましい。
コンテンツの内容については指導者の好みがあり、どれを参考にするかも含めて自分で選ぶよりも的確だろう。
公共の組織などは、学校との関係もあり深く伝える情報も精査されていることが多いため選ぶ基準にしてもいいだろう。
公益財団法人などから考えることも重要だが、活動内容から自分で判断する基準を作っておくことが必要になる。

どのような人物が情報を伝えているかについて簡単な判断基準は実績と資格になる。
もちろんその人物のブログなどで、言葉の表現や理解のしやすさに気を使っていることなども判断基準になるだろう。
名プレーヤーが良い指導者でないケースを考えると安易に実績のみを選択の基準にしない方が良いこともある。

ここで重要なのが、言っていることを行うだけではなく、自分が効果の検証をすることに意味がある。
実際に行った練習はどのような効果があるのかという点を理解する必要がある。
例えば、体幹を鍛える運動は10年前後で流行してきたがどのように使われているか理解できるだろうか。
野球であれば体制の維持に役立っている。
バッティングであればスウィングの時に体が崩れると強いスウィングができない。
(強いスウィングとは体の姿勢を維持して、エネルギーをボールにうまく伝えて遠く飛ばすことができるスウィングのこと)
強いスウィングは骨盤や肩甲骨などの位置が決まっていることが多く、
体幹が打てる基本姿勢の維持に役立っていることを示す。
これはあくまで例の1つで個人個人で自分の言葉の概念で定義づけることが必要になるだろう。


少しは参考になれば幸いだが、ネット上の情報は完全ではない。
本やTV、ラジオいろいろなコンテンツがある。
それらで判断する基準を自分で定義していくことが望ましい。

以上、スポーツにおける情報収集とその判断材料について考えたことでした。