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動画だけではスポーツの指導が難しい理由。

スポーツの戦略もあり、指導者は指導内容を明かしたくない場合がある。
スポーツにおける指導方法の動画を流して、指導方法を共有することが情報流出になる可能性がある。

しかし、本当にそうだろうか。
そうであれば、動画を使用している塾などは指導方法が流出して経営危機になっているのではないだろうか。
ただ、実際はそうではない。
個人個人で理解できる場所や考える内容が異なるために、動画を見るだけでは完全に理解できない場合もある。
だから、動画を公開しているだけでは価値があるということになりにくいのだ。

動画を教材にしているものは塾だけではない。
プログラミングやデザインの学習サイトでは動画を一部だけ公開して続きが気になるようにマネタイズしているものもある。

さて、本題のスポーツで考えてみよう。
スポーツでは、動画で理解したことを再現性のあるものにしようとするとズレが生じ完全に動作をコピーすることは難しい側面がある。
動画だけを見て、動作を理解することは難しいのだ。
そのため、動画学習によって動作を再現することには何度も実験と検証を繰り返す必要がある。
指導する側が動画をもとに教えていかなければ、かなり時間のかかる作業になってしまう。

これらのことから考えると、動画を公開するだけでは、他の強豪チームに不利になるとは言い難いだろう。
仮に不利になったとしてもそれは動画を見た人全てのレベルを上げているということになることになる。
そうなることでスポーツの競技レベルが上昇し、結果として自分が所属しているチームのレベルも上がる可能性が高くなる。

これはあくまで理想の循環になる。
スポーツのコンテンツは、youtubeだけでもかなりの数が存在している。
参考にする動画だけで考えると十分すぎるほどだ。
しかし、動画が無造作にあるだけでは、スポーツのスキルを上達させたいユーザーにとって効果があるものではない。
というのも編集能力があるユーザーばかりとは限らないからだ。

水泳で考えてみる。

ストロークやターンの技術を向上させた選手がいるとする。

この選手が今以上の技術を獲得するには、新しい方法を自分で開発するか他の人に今以上の方法を教えてもらうことになる。

動画を見て新しい技術を獲得する場合には、すべてを真似るか部分的に真似て新しい泳ぎ方を獲得するかのどちらかだ。

だが、選手の多くはストロークやターンの脳内に記憶しているデータベースが少ない。

そのため動画だけをみても参考になりにくのだ。

ストロークやターンの微妙な違いなどを適確にアドバイスできる指導者が編集することで価値になる。
対象となる選手へのアドバイスをプラスしてこそ本当の意味で付加価値となるのだ。

まとめると以下のようになる。
・動画のコンテンツをアップするだけでは価値とは言い難い。
(動画のみで理解できる完璧な動画であれば価値となる可能性がある。)
・もし、価値となるコンテンツ配信となったとしても競技全体のレベルがあり、
結果として自分のチームのレベルも上がっていく。
・すでにあるコンテンツも上達したいプレーヤーのレベルに編集されてこそ価値がある。

現状を考えるとまだ様々な指導方法があることが予想される。
全体の競技人口が減っていくと、指導者も減っていくため練習の方法論などネットに残して欲しい。
それをヒントに指導する監督や先生もいるはずだからだ。
指導者の質向上には失敗した方法も成功した方法も必要だ。
今後、人口がさらに減少していく中で少しでもプレー技術の低下を食い止める方法を私たちは模索していくことになる。

そのためにITをどのように使うかという部分で考える必要がある。
逆にネットを禁止するという意見があるものの、問題解決に時間を使わずサービスを利用することは社会で必要になる。
その習慣を子供の頃からつけているケースとそうでないケースでは相当な差になるが、それでもネットは使うべきではないのだろうか。

もちろんネットを使えない場合もあり、その訓練という意味でも使い分けが必要だろう。
リスクとメリットの把握の上で、個人による決断が鍵を握りそうだ。

均一化する社会

食品の値段が物流の影響によって地方と都会ではあまり変わらない状態になっている。
さらに買い物もショッピングモールができたりといったことなどで、
ますます都会に住んでいても地方に住んでいても買えるものに差はなくなっている。
これはECによって差がなくなったというレベルからさらに上がったものかもしれない。

私が住んでいた鹿児島の田舎でさえ、すき屋マクドナルドがあった。
都会と地方の差について少し考えてみよう。
移動手段が車になるのが地方の生活の特徴になるだろう。
都会は、バス、電車で済むことが多い。
家賃が高い都心に比べて、地方は街から外れると安くなる。
働く時給についても同じようなものだろう。
看護などの資格がある専門職以外は都心から離れるほど給与が下がると考えることができる。

ここまではいろいろな本などで書かれていることが多い。
学校の教育の均一化は逆に難しくあるというのが現状にある。

教師における指導力の差はないものとして考えるとしても、将来の仕事で必要になる知識が地方と都会では未だ異なる部分がある。
何が違うのかというと働く会社で使用するスキルが異なるため、都心から離れれば離れるほどPCなどを使用することが少なくなる。
これは、会社基準で考えるのではなく、個人レベルのスキルで考えることが必要になる。
勤怠管理や給与関連で使用することになるPCだがそれ以上に使うことはなく、他の機能もうまく使用されていないことが現状だ。

地方と都心の差を少なくするものの1つとしてECがある。
ECなどはUIの改善などでユーザーに優しくはなっているものの、ネットショップはもっと増えてもいいのではないだろうか。
というのも検索しても、観光のページばかりだからだ。
これは人の行動特性に理由があるのかもしれない。

人は、短期的に問題がない場合は行動を変化することがない。
現状維持バイアスが働くことも理由の1つだ。
他の良い問題解決の方法があったとしても現状を維持することが楽だからだ。
むしろ変化させることの方が脅威に感じるケースがある。

これらのことを考えると地方の学校で習得することは、プログラミング教育の一歩手前にPCを簡易的に利用するマーケティング系の授業なのかもしれない。
プログラミング教育はレベルが高く、現実的に地方で需要のある教育とは言い難いのが現状だ。
つまり、変化へのハードルを低くするための体験がデザインされていないということだ。

気になるのは、なぜ食品などの物流おいて生活が豊かになるという手段が採用されたのかという点だ。
採用のフェーズは異なるとしてもECの採用は生活が豊かになるという手段となる。
では、地方の良い商品でECが活用されていない理由はなぜだろうか。
考えられるのは、PCが日常生活でユーザーの使っているものかどうかという点だろう。
当たり前だが食品は毎日使用するものになる。
だが、PCを毎日利用するかというと地方におけるPCの利用は都心と比較したときに差がある。
地方の電化量販店で売られているPCと都道府県庁所在地近くの電化量販店のPCの品揃えとスペックに差があることと同様だ。
(地方の人が考える購買チャンネルを検証する必要はある)

予測にはなるが地方はPCを利用する頻度が都心のユーザーよりも低いと考えられる。
ということでECの利用はPCを利用する活動領域を飛躍させる必要がある。

ECに限ったことではなく日常の生活で習慣から変化する必要があるというのは実はハードルが高い。
とすれば都心と地方の生活における需要の差を少なくすればECが利用される可能性が出てくる。
そのため、地方と都心の生活ニーズをどのように一致させるかという問題を解決することになるだろう。

だがこれは産業構造から考えると一致させることは現実的な問題解決とはならない。
とすればだ。
全ての都道府県でプログラミング教育をすることが好ましいとは限らないということにある。
興味の段階レベルから考えた時にプログラミング教育の何歩か手前のIT学習を用意することの方が現実的な可能性がある。

教育に話がずれたが社会はどこまで均一化するかという問いと向き合う必要があるのだろう。
そして社会が均一化する限界はもうすぐそこなのかもしれない。

問題解決について考えない現状

問題を理解することと問題の解決方法を学ぶ機会はある。
しかし、問題の解決策の適用について考える機会は少ないというのが現状だ。

例えば生活習慣病は問題だとする。
そして解決策は、バランスの良い食事をすることだとする。
しかし、解決策が使えるかというとそうでもない。
というのも人は自分のルールみたいなものを作り自分自身に甘くなってしまうケースがある。

例えば糖分を控えているにもかかわらず、今日多く食べ過ぎた分明日は控えればいいといったことなどだ。
現実的に考えると、1日における摂取量は決まっているのであまり好ましくないことになる。


ここでどのような手段があるか考えることになる。

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・食事を含めたお金の管理を誰かにお願いすること。
・食事についての解釈を変化させる体験をすること。
(間食する前に必ず、太って不利益を被る動画を見るなど)
・食べ過ぎないような手術を受ける。
(日本で可能かどうかも含めて調査が必要)

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このように問題解決について現実的に考えるということが少ない。
解決策があるということで問題が解決したと思うことが多いためだ。
そもそもの学習習慣がないということもある。
クリティカルシンキングを利用する授業は海外でも行なわれているが、
日本で行なわれているものとは質が異なっているように感じるのは私だけかもしれない。

中央教育審議会高等学校教育部会によって過去に推進されている。
ところがこの問題の解決策は現実的ではなく、クリティカルシンキングを利用していないというパラドックスが存在している。

現状の教員は忙しく実用的にするには、難しいという声は確実にあるだろう。
だが問題解決について考えることは、部活や勉強など通常のことでも使用するのも可能だ。
さらに言えば家庭科や技術などを選択授業にするなどして(現状の仕事として選ぶ機会が少ないものを選択授業にする。)、
時間を作ることの方が優先にした方がいいだろう。

もちろん家庭で教えることも1つの手段だ。
学校教育だけでは補えない部分は家庭で補うことになる。
また、現状の状態にしているのは家庭からの要望があり、学校で働く人のリソースを使用していることもある。

クリティカルシンキングをスポーツで利用する位置づけとすることも可能だが、指導者の力量によるだろう。
クリティカルシンキングが実行されるためにクリティカルシンキングが利用される日を願いたい。

肉体改造の限度

フォームの比較は、よく以前の良かった時期のフォームと比較される。
もちろん運動を獲得してから感覚的にも安定していることもあり、参考にできる部分はある。

重要なのはどこの部分を参考にするのかという点になる。
野球のピッチャーで考えてみよう。
ピッチャーの場合フォームを良いものだとして変化させた場合に、
運動獲得時とはバランスが悪いものになってしまうケースがある。

そこで多くの選手は過去のフォームに戻そうとする。
しかし、時間をかけて変化したフォームの癖はなかなか取り除くことが難しい。
過去のフォームを再採用した場合に自分がこれまでの挑戦したフォームによってついた癖を含めた運動になることがある。
そのため、過去のフォームを真似しても戻らないのだ。
過去のフォームに戻すには、どのようにして癖をなおすかという問題を解決した後で過去のフォームに戻すという作業が発生する。

スポーツおけるフィードバックで気をつける点は、目的までの自分との距離と現状の自分をどのように把握するかということにある。

ここで例とするのが肉体改造になる。
プロスポーツ選手における肉体改造は良い結果になっているケースが少ない。
今回このことを題材に考えてみる。
肉体改造によって筋力が強化された場合、変化することのないフォームを使用することが可能だろうか。
もし使用することが可能であれば、一度覚えた運動のフォームに筋力強化の限度が存在すると考える。
肉体改造などで強化する筋力の多くは、限度を超えたものであり、その場合運動を変更することになる。

結果を出せるフォームに関しては個人差がある。
筋力の柔らかさから肩関節や股関節の可動域、骨格などの体型など様々なものが要因となる。

一度獲得したフォームに限度が存在する場合、肉体改造において考えられる問題点は以下になる。
覚えた運動を消すことが可能か?
消してからの運動獲得はどのようになるのかという点だ。

もし獲得して運動を消す(忘れる)ことができないのならば、
大幅な肉体改造ができる限度は運動を獲得した時におおよそ決まってしまうことになる。
ここで言えばピッチングフォームを一度覚えてしまった場合、それを変化させることができない(部分的な場合も含める)として、
固定されたフォームには変化できる限度が発生している。
肉体改造における筋力強化はリスクがあるようだ。

もちろん、ボールのキレの安定性を保持することや体の柔軟性を上げることなどやることは他にもたくさんある。
日本人特有のフォームか骨格には筋力を増強するなどの肉体改造には限度があるのかもしれない。
ただし考えるべきは、「過剰な肉体改造」が日本人の体に合っているかどうかという点は考える必要があるのかもしれない。

以上、肉体改造の限度について考えたことでした。

環境に影響される意志。

www.nikkan-gendai.com

キューバの社会とアメリカの社会でどのような教育を受けるかという問題もある。
グローバル化という意味では、アメリカで教育を受けた方が良いとも考えることができる。

これは学習する環境を移動するという意味にもなる。

農業をするなら、高校から組織の仕組みを理解できる場所の方が好ましいだろう。
(つまり、JAから個人事業主の経営を知れる確率が上がる田舎の農林系の学校)
プログラミングをするならば、都心にいた方がまだ有利だ。
プログラミングに関しては、ネット上で教育を受けることができるために、今後変化する可能性はある。

しかし、プログラミングをする人が好む環境が未だ都心に依存しているように感じる。
(栄光欲に近いもので、プログラミングをすることが「カッコ良い」「すごい」といったことにつながること環境が都会にあるということだ。)


また、以前述べたが教員の数と生徒の数から考えると、都心で35人学級の場合と複式の7人程度の学級の場合は複式学級の方がむしろ教員が密接に指導できるように見える。

教員の数と教えられる子供数で教育の質を考えることができるのであれば複式学級を選択する人もいるだろう。

 

学習における他者の注意が対象者への意識へと関与しやすいことが選択の理由と考えられる。
何を意識するかが重要だという点はもう多くの人が理解している。

ところが自由意志での進路選択決定は思った以上に環境から制限されている可能性もある。
もし、身近な情報における刷り込みによって脳内の情報が整理されているのであれば、
私たちの将来は環境に依存していることになる。

実家が味噌を作り販売しているのであれば、嫌でも発酵などの知識にいて知る機会が多くなる。
これは生まれて成長する環境が人の進路に大きく影響しているとも言える。

また、関与する人も当然大きく影響する。
プログラミングの部分でふれたが栄光欲に関連するものだ。
これは、動機付けがなされやすいもので将来の進路を決定することは少なくない。
コンテンツがネット上に溢れている今勉強における学力の格差は少なくすることも可能だろう。
もちろん、信頼できる情報やどの動画を使うかなどの判断が難しい側面もある。
しかし、実際は格差社会の差は広がっていく傾向にある。
(年収と学力の関係において様々な議論があるものの、現状は年収と学力が関係していると考える。)
お金を学習塾などの習い事に使い学力が上がることに関して考えると、良い学習コンテンツだけがあるだけでは人は学習するとは限らない。
となるとだ。
周りに関与する大人や友達などの要因が学力の向上を大きく左右しているのではないかという仮説が生じる。

私たちは思った以上に自分が生活している環境に左右されやすい。
未来の子供たちのためにできることは、「伝える」ことはもちろん必要だ。
しかし、本当の意味で「伝える」ことがわかるには時間がかかる。
「伝わる」には「教育」の部分と「環境」の部分両方の関与が必要なのだろう。

以上、キューバの選手流出問題から考えたことでした。

実行と検証の体験のデザイン

指導者は、プレイヤーのPDCA体験をデザインする必要がある。

実行と検証の間には大きな溝があるため体験をデザインする必要があるのだ。
例えば太りすぎることは身体に良くない状態となることは多くの人が理解している。
ところが、運動不足や食べ過ぎなどの食生活が原因で糖尿病や血圧などの様々な問題に悩まされることもある。

油物を控えることや適度な運動をすることが良いとは誰もが理解していることだろう。
人だから言われたことを100%の確率で実行できるというわけではない。
だからこそ、指導者はプレイヤーとのコミュニケーションをとる必要がある。
コミュニケーションによってPDCA体験をデザインするのだ。
それでも自分の行動を制御できないケースがあるのだから、プレイヤーが行う動作そのものでもズレが生じるだろう。

指導者が言えばプレイヤーが100%指導者の考えた動作を実行できるわけではない。
指導者はプレイヤーの体験をデザインする必要があるのはこのためだ。
そこで必要になるのが、コーチングや科学、IT(デジタル領域)になるだろう。

言えば実行することは人の行動ではなく、ロボットのような見方になる。
指導者で言われたことがなぜできないのかということで悩む人がいるかもしれないが、
それがある部分では自然だろう。
むしろ、教える選手すべてが言われたことができてしまう設定となっていることの方が不自然である。
もちろん、走ることなどで簡単なこともあるかもしれない。
そして、集団をコントロールするためには時には厳しさも必要になることだろう。
これは理想論ではあるが、個人への指導が厳しさによって不適切なものになってしまってはならない。

しかし、言うだけで実行するというコミュニケーションを省いたことになってしまっては、
スポーツの価値が下がってしまう。
というのも、指導者が上司だとした時、プレイヤーとのコミュニケーションは就職活動で必要とされているものに近いからだ。

スポーツの価値を下げることも上げることも何を意識するかで変化する。
コミュニケーションが何かということについてかなり考える時間はあった。
トレンドとなっているコミュニケーション能力はかなり前から存在している。
便利に概念が変化するコミュニケーション能力とは利益最大化するために上司への最善の対応と言えなくもない。

だが、スポーツが言われて実行するだけのことから変化するには、
指導者による裁量が大きい。
プレイヤーの実行と検証における体験のデザインも指導者に委ねられている。
問題はたくさんあるが、今後変化し生産性が向上するコミュニケーションを期待したい。

 

以上、実行と検証の体験のデザインについて考えたことでした。

正しい情報と価値のある情報

タバコやお酒に溺れてしまうことやクレジットカードを使いこんでしまうなど、
これらに対して「危険だ」という信号はいくらでもある。
公的な組織からは、自分で寿命を短くすることは止めるように警告を促す情報を提供している。
それにもかかわらず人は、健康を害する行動をしてしまう。

健康に良いとされる食事にをとるために、毎日30種類以上の野菜を食べて何十回と咀嚼することが必要だ。
炭水化物・脂質・ビタミン・無機質・タンパク質をバランスよく自炊してとることも難しい場合もある。
自炊どころか、栄養を自分で考えて摂取することは稀でコンビニやスーパーの惣菜で済ませてしまうことの方が現実的だったりする。

これは、思った以上に深刻な問題なのだろうか。
現状で負荷のある医療費が将来さらなる医療費の増加となることも考えられる。

そのため健康志向となっている現在も注目されるべき課題でもある。
健康を考えたバランスの良い食事は、どんな製薬会社が作るよりも良いサプリメントだとするとこれは放ってはおけない問題だろう。

しかし、理想の話ばかりでは、目的を逆に達成し損ねる可能性がある。
制約で縛りすぎるとリバウンドのような状態になりかねない。
重要なのは自分のできる範囲のことで健康を保てるようにすることだったはずだ。

つまり、コンビニやスーパーの食品で健康を維持しやすいものを選ぶことが現実的な目標設定になるだろう。
また、そこからできることを増やしていくことで成功モデルができ、人の習慣を変更するきっかけになりやすくなる。

人は、正しい情報よりも自分を支持してくれる情報や解釈しやすい情報を選択する。
健康のために完璧に計算された食事を毎日用意していくよりも、コンビニで食べるものをどのように選ぶかということを変化させることの方が現実的な場合がある。
健康を考えてというが、結果として人は自分で出来そうだと判断するものを手にしやすい。

もちろん正しい情報のもとに選択している人もいる。
しかし、考えて欲しいのは正義感あふれた行動も、堕落して理想とは違う行動をする人もどちらも人だ。
ここで重要なのがマジョリティはどのように行動するのかという点だろう。

この内容から理解しなければならないのは、ユーザーの多くが好む情報が正しい情報でない時、検索エンジンが提供する情報が正しい情報でないケースが存在しているということにある。

これは、「正しい情報だけを検索させれば問題ない」ということではない。

もちろんそれができればいいのだが「正しい情報が何か」という問題は解決に難しい側面を持つ。
自分で判断基準を持ち、どこの情報を信じるかということを結論付けておくことが重要だと考えられる。

 

以上、正しい情報よりと価値のある情報について考えたことでした。