記憶の接続のしやすさからの学習の考察

人には得意不得意があるということは誰もが理解しています。
しかしイメージの接続についてまで意識しているという話はあまり聞きません。

すごくあたり前のことですが、抽象的な話の例え話よりも対象となる人が体験したことの具体例を含めて話をする方が記憶に残りやすくなります。
これは既にある記憶と結びつきやすいために起きるものですが、人の連想記憶の構造を理解するとよりわかりやすくなります。

何か相手に説明するときに具体的で単純明快、7前後の項目にしてエピソードに残るようにする。
プレゼンテーションや部下への説明、先輩への報告などいろいろな場面で、記憶の接続について考える機会はあるでしょう。

自分が持っている接続しやすい記憶にどのように結びつけるかについては受験生がより考えているので私よりも詳しいかもしれません。

記憶のしやすさから考えた時、私たち自身は問題解決について意識することが2つあります。
それは以下2点です。
・いつ自分の問題解決プロセスをどのように理論だてるか
・自分の接続しやすいイメージが何かを意識して理解する

この2点ですが、バラバラで知る機会は日本の社会で生きていればたくさんあります。
まず、テストで良い成績をとろうと考える時、記憶することについて考えます。
そして、どうすれば効率よく記憶できるかを考える機会になります。
また、問題解決のプロセスについても学校で学ぶ機会はたくさんあります。
部活はもちろんですが、クラスのイベントなどでもいろいろなものがあるでしょう。

ここまでの文章からするとあまり問題ではないのでは?と考えるかもしれません。
ですが、「いつ」この2つについて理解するのかという点はあまり話題になりません。
小さい時期から問題解決のプロセスについて知ることは難しくて価値がないと考えるかもしれません。

では、記憶のことを思い出してください。
自分の接続しやすいものを連想するということでした。

簡単に説明すると、自分の問題解決におけるプロセスを自分で理論化することはパーツ化して、違う体験でも利用できるようにすることにつながります。

私たち自身が得意なものがスポーツなのか、勉強なのか、プログミングなのか、デザインなのか、お金を稼ぐことなのかはわかりませんが、問題解決のプロセスを接続しやすい記憶から理論化することがポイントです。
行動のパターン化を疑似体験のイメージとして利用しやすくなると行動に変化があるかもしれません。

もちろん明確にすることがベストだとも考えているわけではありません。
問題解決のアプローチや学習については重要だとは述べられていても、それが自分でどうやって確立されて利用されるのかについては述べている人が少なく、議論された方が良いのではと考えて少し文章にしてみました。

記憶の方法や問題解決については体験を通してでしか学べませんし、役立ちません。
自分で使えるようになって価値が増すものだと考えています。
ここではスポーツについて述べていますが、スポーツを得意な人がスポーツを利用して他の問題解決に役立てることができればいいと考えています。

「いつプロセス化するか」の「いつ」に今回こだわってみました。
時期が早いからそれは教えなくてもいいのではなく、使えるタイミングになるために知識を保有しておくということが必要なのだと考えています。

以上、記憶の接続のしやすさからの学習の考察について考えたことでした。

コントロールできる意識とできない意識

意識的にわかっていることと無意識における行動の違いはどのようなものでしょうか。
これも個人によって異なります。
このことを考えたきっかけは望んだ結果には到達しないと考えて行動することと到達できるかもしれないと考えて行動することはにはどれほど違いがあるのかというものです。

具体的な例としては、プロテニスプレーヤーになれるかもしれないと考えて練習することとそれは無理だと考えて行動することにはどれほどの差が生まれるのかというものです。
可能性があると考えたときの集中力や練習への取り組み方は変化します。
これは誰もが予想のつくことですが、違う問題にも当てはまります。

例えば低所得者を0にすることは可能でしょうか。
おそらく高所得者という概念が存在する限り難しい問題です。
また、競争ということが義務付けられた世界で生きることを前提にした場合これは解決できない問題と言い切れるかもしれません。
(ベーシックインカムのような制度ができれば別かもしれませんが、低所得者がいることが悪い社会システムの是非ついての議論も必要になるでしょう。)
ここから考えたいことは、自分の努力で頑張ることができる範囲がおおよそ定義づけれてしまったとき、人の行動は制御されてしまうのではないかということです。
低所得者はある一定数なってしまうもので、それが自分だとわかったとき人は最低限の努力しかしなくなる可能性があります。


少し話が脱線しましたが、考えてもらいたいことはここから先になります。
できないとわかってしまっていても、できると思いこんで行動しなければならないケースがあるということがあるということです。
プロテニスプレーヤーのプレーを目にして自分の実力の差を痛感して、基礎能力の差がかなり大きいと理解できたとします。
プロテニスプレーヤーになれる可能性がかなり低い場合でも、全国大会で良い結果になる必要があるのであれば練習をする必要があります。
しかし、プロテニスプレーヤーになれると考えて練習していた時よりも、練習の質は悪くなる可能性は高くなるものでしょう。

働きアリの法則の法則で組織効率的なものの働かない人の存在について理解してしまうケースがあるとします。
これは、理解してしまった場合無意識に自分の行動を制御してしまう可能性があります。
できないとわかってしまっていても、できると思いこんで行動しなければならないケースになるでしょう。


ここで確認したいことは、何をもって価値となるのかということです。
プロテニスプレーヤーになることは難しいとわかっても、自分に有益にするにはどうすればいいのか考えることが必要です。
努力して結果になってきたことを、次に応用するために利用することができれば自分が区切りをつけたい部分までの努力する意味づけにはなるでしょう。
プロ選手になることの最大の価値は何か?という点で考えます。
・契約金がもらえる。
・有名になれる。
・テニスの技術を上げることができる。
などがあるとします。


それは、違う方法や目的で達成することができるのであれば、どのようにこれまでのことを利用するのかという点で考えた方がいいでしょう。

実現したい目的が不可能だとわかった場合、対処と確認することは必要です。
無理だとわかって実行することの方がリスクが高いのではないでしょうか。

感覚の比較と実際のパフォーマンスの比較

感覚の比較とは→
感覚の比較とは自分の意識のみで比較することです。
例えば、サッカーであれば足の振り上げ位置や蹴る足とボールに当たる角度でどんなパスが出せるのかという点です。
この例は感覚で修正しやすいものですが、味方のパスに相手に気がつかれないように反応する感覚などは比較的難しいかもしれません。


実際パフォーマンスの比較→
この場合は、自分の行動を違う解釈によって理解することです。
機材による自分のパフォーマンスの記録や自分以外の人からの意見などが当てはまります。
もちろん他の人の解釈が自分の解釈よりも客観的に捉えにくいケースもあります。
物理的に自分の行動を解釈したい場合は、カメラなどの機材を利用することの方が好ましいでしょう。


これまでは、感覚で自分のパフォーマンスを比較することは危険であり、客観的に比較すること望ましいということを述べてきました。
ただ、実質的な問題からすると感覚の比較と客観的な比較をバランスよく使用することが望ましいということになります。

作業の効率化を考えると毎回同じように記録している動作を比較することは望ましくありません。
この点は、自分で確認するしかないでしょう。
カテゴリーについて考えると以下になります。

意識することでどの程度偏るか
無意識に作業している場合の内容
自分の通常の注意するできるベースとそのズレについて


少し言葉の認識を合わせてみましょう。

今回比較することについて考えてみたのは、いつ解釈することが望ましいのかという点が気になったためです。
もちろん、ここに記述した私のカテゴリー要素も印象値によって考えたものなので、自分の過去の体験からうまくピックアップしてもらえるといいかと思います。

注意したいのは、過去の体験の場合検証を行動ベースで考えやすい点にあります。
あの時したことを再現することで同じ現象が起きるということを考えやすいものになります。

例えば、大会で良い結果を残せたことは練習内容が良かったためだと考えることがありますが、それは判断する基準の1つであって自分の能力に対しての評価ではありません。
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例えば、2016年6月に基礎練習をしていたから10月の大会は勝てた。
、2016年12月の大会は、10月以降実践練習偏っていたから負けた.
だから2017年4月の大会まで基礎練習を大切にするという分析をします。
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試合におけるメンタル要因の場合もあれば、完全な実力差である場合もあり、目標・現状の能力などの数値化から考慮してすることが必要になるでしょう。
体力や技術・メンタルなどをどのレベルまで向上させるのかということからも考える必要があります。
基礎練習で向上されるものが何かを定義して、それを意識して練習してこそ価値になります。
そのため漠然と基礎練習をすることが同じ結果となるとは考えにくいものでしょう。
試合での得点力アップを目的にするのであれば、起動力や基礎体力などから選びそこからどのような試合運びをするのか考える必要があって、基礎練習の内容も決まってきます。
過去のやっていた練習という捉え方をするのではなく、練習をした内容がどのように試合に結びついたのかを分析して、戦略を立てる必要があるでしょう。

ここまでの内容から述べたいことは感覚がノイズで役に立たないということではありません。
というのも感情ベースでしか人は意識できないからです。
「感覚に頼ることはミスになるから数値に頼る」というのも感情があるために考えられることだからです。
言葉遊びになりそうなのでここら辺で終わりますが、どのように自分を見直す期間を設定するのかという点を考えてみてください。
感覚に頼りすぎることは、ミスした時の検証をする時に時間が必要になります。
しかし、感覚を利用することでスピードを上げることも必要なケースもあります。
自分の行動から考えた上で、どれがベストのカスタマイズになるのかを考えてみるといいかもしれません。

以上、感覚の比較と実際のパフォーマンスの比較について考えたことでした。

記憶と抽象化の利用について

基本と応用の話を聞くことはたくさんあると思います。
普段の小学校の算数から仕事での作業など基本から応用することはどこでも利用することでしょう。
応用することは、ある出来事から利用出来る部分を抜き出して違う出来事に利用することです。
今回は、具体的な部分(ある出来事)と抽象化の利用について考えてみました。

ここで少し記憶の話のしてみます。
私たちは具体例について考えると自分が所持しているイメージとそのテキストベースの解釈を結びつける傾向にあります。
記憶のモデルにも様々なものがありますが、スキーマという記憶の束を利用しているという説を利用します。
スクリプトのモデル内容などいろいろなことが言えますが、ここでは簡単に自分が見たり聞いたりした解釈に接続しやすいイメージがあるということを理解してください。
例えば、野球の知識を少し所持している場合だと以下の内容の文章を理解できるのではないでしょうか。

「会社はスポーツのチームと同じで、4番バッターばかりでは得点しにくい。
一番バッターや二番バッターなど様々な役割があるからこそうまく組織が機能して、利益を得ることができる。
もちろん、全員が3割程度の打率でホームランを打ってくれるなら別だがね。」

根拠はないのですが、高校性のサッカー人口が野球人口が上回った年月から15年前程度の世代の子供にこの話をしてもあまり共感は得られないものでしょう。
プロ野球の全国中継が終わった年から15年程度でもいいかもしれません。

共感することには自分が所持している記憶を使用する必要があり先ほどの例を出してみました。
ただ、それは訓練次第で変化します。
例えば違うスポーツの種目でもいいでしょう。
話をする対象者がバスケット経験者であれば、バスケットのチームの役割の記憶を利用することで先ほどの話を理解することができるでしょう。

ここまでの内容は「何、当たり前のことを述べているのか」という話かもしれません。
重要なのは、自分たちの思考する範囲を広げてみることを抽象化したことから考えてみるということです。
先ほどの例のように自分が体験したことの記憶がテキストや出来事の解釈に結びつきやすいものです。
その出来事を抽象化して考えて、他の出来事にあてはめてみるということです。

先ほどの内容はスポーツのチームの役割でしたが、最終的な思考の抽出としては全体のバランスよくするということです。
スポーツの例の場合、チームスポーツは例として使えますが、個人競技では使えない部分があります。
陸上の短距離などではどのような例になるでしょうか。
走るバランスをよくするために、下半身の筋力トレーニングだけなく、上半身の筋力トレーニングもある程度必要になります。

「足の裏の着地や、臀部の筋力、柔軟性、体幹、速筋のトレーニングの割合などコンディションのバランスを整えることが必要になる。
一部の筋力をトレーニングして走るだけのトレーニングでは、速さを維持することは難しい。
それが組織になった場合も同じで、それぞれの役割があって利益を出せる。」

ということで以下のような内容が考えられます。
物事の具体的な事例→出来事の抽象化→他の出来事への変換

抽象化について言えば、ものごとをどのように意識するかという訓練が必要です。
最初に述べましたが、私たちは出来事に対して接続しやすいイメージで物事を考える習慣があります。
具体的な例から物事を抽象化してそれを応用するためには複数の視点が必要です。
複数の視点で考えるために、接続しやすいイメージとは別の思考パターンを用意してあげる必要があります。
「普段の物事の見方を変える」という言葉よく聞きますが、これも1つの方法です。
「普段の物事の見方を変える」というのは解決策の一歩手前のことなので注意が必要です。

以上、記憶と抽象化の利用について考えたことでした。

挑戦することの期間について

「挑戦」と「継続」についてはいろいろ褒められることがあります。

スポーツやビジネスでの成功の美談について新聞やテレビ、ネットで目にしたことがない人の方が少ないでしょう。

挑戦することはいいことだと認める人は多くいますが、やめることにおいて決断のプロセスについては語られません。
衰退や運営における内容の失敗からの撤退などイメージが悪いこともあるかもしれませんが、絶頂期があれば必ず終わりあります。
どのデータから分析して判断し、やめる決断をしたのかということは理解されることが必要になるでしょう。

初期設定におけるシステムの設計ミスは、ある程度のケースで発生しうるものです。

 

スポーツでも継続することの期間について考えてみてはどうでしょうか。
ここまで継続してきたのだから継続すべきという意見はあるかもしれません。
以下のケースについて考えてみましょう。
人が少ない学校だったため一人でできる陸上競技やり投げをしていたとします。
県内でも五本の指に入る選手にまで成長しました。
高校では、人数の多い学校に進学したため様々なスポーツを選択できることになりました。
友人に勧められてキャッチボールをしました。
やり投げで鍛えられた肩から広背筋の使い方から、遊び半分測ってみたスピードガンの表示が130キロあったとします。
すると野球とやり投げどちらを選んだ方がいいでしょうか。
プロスポーツ選手を目指すのであれば野球を選ぶかもしれませんが、陸上競技の伸びしろ次第では社会人の実業団に努めることも可能です。

判断する内容は、
・現状のプレーのレベル(大会でどのような結果になったか)
・成長する見込み(同じチームでプレーしていた友人が全日本選手になったなどは見込みの期待値が上がるでしょう)
・他者からの評価(メディアからの情報も含む)

人の選択にはアンカリングという内容が大きな影響を持っています。
少し前のTVコマーシャルなどとてもわかりやすい例で、人の選択に無意識に影響されるものだと言われています。
これは次回の題材にしたいと思うので今回はここら辺にしたいと思います。
つまり、TVでの取り上げられ方や学校での指導者や友人の評価などがスポーツの選択に無意識に影響しています。
そのことから考えると撤退やそこから次の挑戦スパンについてのデータ収集を考慮されることが必要かもしれません。

ところで気になるのは判断するスパンがどのように決まるのかということです。
結論を述べると判断するための情報収集の期間は個人の決断に委ねられます。
それは不確定要素が多すぎるということがあります。
だからこそ、継続することをやめることに至ったプロセスの情報収集が必要になるのです。
決断と判断のプロセスについて私たちは大切だとは教えられることが多いですが、使い方についてまで言及されません。
それが将来にどのように影響されるかどうかを他者が体験しやすいようにデザインすることが必要なのかもしれません。

把握しきれていない変数は、以下になります。
意識による注意のリソースを把握しきれていないこと。
(意識そのものの把握もまだ定義できていないこと)
遺伝子における要因と環境における要因のパタンの組み合わせにおける成長の見通しが把握できないこと。
感情をベースに行動が設計されていることの変数により、厳密な行動の検証が行うことが現状困難であること。

これらのことでもまだおおよそでしか確実な挑戦における期間の把握は難しいと考えます。
ですがこれだけの情報が揃うことによってなるべく確実な未来を手にすることも可能と言えそうです。

逆から考えると生まれた時におおよその未来は決定してしまうということになります。
遺伝子を習慣から変更できると言っても、それは一部の人に限られることでしょう。
確実な未来は、挑戦の幅を狭めることでもあるのかもしれません。

過程を大切にすることの意味

前回
過程を大切にすることの意味については次回に言語化してみます。
と言ったので言語化してみます。

「結果ばかり重視している」などといいう言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
これは逆から考えると過程を大切にする価値があるということになります。

しかし、過程が重要という理論を語る人に私自身あまり出会ったことがありません。

視点を変化させて考えてみましょう。
結果主義におけるアメリカ的なインセンティブを重視した考えは、
家族経営的な日本には合わないという言葉を聞いたことがあります。

これは、結果だけでなく過程を評価すること、
努力した点も評価の対象にするというような見方もできます。
成果に直接つながらなくても評価するという点でモチベーションの維持に繋がりやすいなどの利点があります。
どちらがいいかについて長期的に成果につながったことを評価したなどの見方があるのでここでは言及しません。
成果主義ではない点は学校などの影響もあり文化的な側面も強い印象を持ちます。

スポーツについて考えてみましょう。
スポーツにおいて過程を大切にすることは努力を評価することの意味に近いと考えています。
しかし、スポーツでレギュラーを目指すにはあまり努力は関係しないケースが多いです。

もちろん、頑張って試合の出場機会を確保するという部分から評価されたということはあるかもしれません。
ただ、勝利を目標にするのであれば努力したことばかりが評価されるのは好ましいとは言えません。
また、スポーツそのものもある程度の結果にならなければ、継続して努力することは難しくなります。

過程を大切にするためには以下の条件が必要になるでしょう。
結果につながること
評価基準が選手全員の批判とならないように設定されていること
過程の評価された選手が納得できるもの

過程を大切にすることの意味で最重要視されるのは、「温かみがあるから」という印象値よりもどのように結果につながったのかを証明できることにあります。

これは再現性のある結果を生み出すことができることを目的にしています。
何度か結果の良い試合になったとしても、それを目的とする大会で利用できなければ価値となりにくいものでしょう。
もし、これを読んでいる多くの人が改善することを目標の前提条件としているのであれば、これまでの言葉よりも大切にすることがあります。
ここで確認しておきたいのが「過程を大切にすること」においてテキストに価値があるのではありません。
今までの習慣となっていることから何かしらを変化させることで、結果になったプロセスをデータ化ないし基準化することでこれまでの成果を上回ることに価値があります。
もちろん環境は常に変化するので、試合の勝率を維持することは評価に値するケースもあります。
(環境が変化すことで、自分たちも変化したことによる現状維持など、評価されるケースは様々だと考えます。)
環境因子、対象となる相手、自己の要素などから考慮して適切な評価基準を形成する必要があるでしょう。

過程の評価基準には、気をつける必要があります。
それはチーム全体のモチベーションに関与するためです。
仮に野球で毎日個人の練習で、チームの全体が認める練習量をこなしていたとしても打率1割未満で全試合の出場機会を得ることになるというのは、勝つことを目的とした選手にとっては不満になります。

結果や機会、過程のためにしたアクションなどから考慮して決定する必要があります。

そして、過程を評価される選手自身は、それが自分のしてきたことに見合っているかもモチベーションの維持に関係してきます。
もちろん、説明しなくても良いケースの方が多いですが、わずかでも結果につながっていることが前提ですので過程の評価された内容は評価する側が理解している必要があるでしょう。

過程を大切にすることに関しては、誰が使用するかで目的も使用方法も変化します。
今回は、全体的な部分から大まかに説明しましたが、個人と組織で大きく異なります。
過程を大切にすることはスポーツでも会社でも家庭でも機会があるでしょう。
一度自分にとっての過程の意義をプロセス化しておくことはいいかもしれません。
人は合理的であろうとする存在であって、合理的でない決断を部分的することがあります。
それが、望ましい結果をもたらさないケースもあります。
今回の過程の大切さにおいてプロセス化することが求める結果の一つのピースとなれば幸いです。

以上、過程を大切にすることの意味について考えたことでした。

理解した上でどのように選択したいかまで設計すること。

科学的にいろいろなことがわかり、それによって改善されていることはたくさんあります。
スポーツなどは、水を飲むことを禁止していた20年ほど前からすると体幹のトレーニングまで様々なものが変化してきました。

高校野球でさえ、タイブレークでルールも変化しつつあります。
常識や認識が変化していくことは、前提となる知識が変化していることからすると当たり前なのかもしれません。

ここで少し考えてみたいことがあります。
「スポーツには、忍耐が必要でしょうか。」
忍耐という言葉のイメージが良くない人もいるかもしれません。
では、スポーツのスキルを向上させるためのきつい練習は必要でしょうか。

この質問になるとプロのプレーヤーを目指すのであれば必要と考える人が増えるかもしれません。
「忍耐」という言葉に違和感を抱いた人に関しては、昔のような論理性のないやっておけばいい練習をイメージしたのかもしれません。
昔のように、しごきのような適当に実行するだけの練習はなくなりつつあります。
もちろん選手が求めるのであれば、しごきのような練習メニューをとりいれたいという人はいるかもしれません。
試合におけるプレーの安定につながるのであれば、それは必要な練習になるでしょう。
ここで考えることは、スポーツのスキルを向上をさせるための練習の必要性と目標の設定における決断になります。
人のメンタル部分が変容する変数である限り、スポーツの練習に絶対的なく正解は微妙に変化して、定義化することは難しいでしょう。

さて、この言葉の違いによって生じた問題ですが、簡単にするとどこまで練習の強度を上げる必要があるのかということになります。
試合でのパフォーマンスがきつい練習をしたことによって上がるのあればある程度の厳しい練習を肯定せざるをえません。
ですが、現状は人の休息におけるパフォーマンスの向上は科学的に証明されているので、文化的な側面における常識の肯定によって
価値のない厳しすぎる練習はある程度淘汰できるかもしれません。

さてここからが本題です。
科学の発展、情報の共有化の進展によって、様々な情報を手にすることができるようになっています。
メンタル面のことや、身体面のことなどを詳細まで理解した上で選択することを設計していく必要があります。

先ほどの練習のことで言うと身体面のことを考慮した場合休息すべきでも、メンタル面の強化を考慮した場合練習を継続した場合が良いなどが例になります。
最近では、いろいろな研究結果によって様々なことがわかりつつあります。
限定的な条件のケースもありますが、これはこれからますます進展していくでしょう。

これからは限定的な条件を考慮して、練習がマネジメントされているか理解した方が好ましいでしょう。
デスクワークでも座り方の意識によっては腰痛になる人もいれば、そうでない人もいます。
遺伝子の骨格的な部分もあるのでもちろん座り方の意識だけでは改善できない部分もあります。


これまでのことは理想であり、指導者に恵まれない場合もあります。
その場合は選手自身が練習の意図を理解して練習を設計するしかありません。


様々な情報を得ることができるようになった今、何が正しいかよりも、目的によって何を選択しているのかを過程から把握して行動していくことが必要になります。
これは再現性のある行動をすることが目的にしています。
過程を大切にすることの意味については次回に言語化してみます。

このことはおそらくどこか違う文章で描かれていることになるでしょう。
この文章を初見だった人もそうでない人もそれからどれを選ぶのかと言う点で、
様々な選択肢を理解した上で選択を設計してみてください。

そういった意味で、選択に価値が生じるのだと個人的に考えています。
昔は、きつい練習をするから技術も向上するという思考だったのかもしれません。
ただ、今はきつい練習をすることだけが勝利に結びつくということでもなくなりつつあります。
情報が増えて選択できるようになったことに価値を加えれるかどうかがこれからのポイントとなるのかもしれません。