体験した出来事があるかないかによって人は理解のしやすさが異なるという現象。

一度体験したことでイメージがしやすいということは当たり前だという意見をもらいそうだが、
使いかたについて考えたことがあるだろうか。

例えば誰かに説明をする時に使用する。
テニスの初心者で野球をしたことある子どもについて、テニスのサーブの動作についての説明は以下のようにできる。
【説明】
相手プレイヤーに半身で左手でボールを上げ、タイミングをはかり野球のボールを投げる時の腕の振りでラケットをボールに当てる。
野球でキャッチボールを利用する時に必ずボールを投げる運動動作があるのでその体験を利用することになる。
ラケットにボールを当てる位置や面の微調整などは練習で感覚として覚えていくことが必要になるだろう。

過去体験の利用で言えば営業マンはクライアントの共感を得るために、なるべく共通の話題を利用する。
これは記憶の接続のしやすいものの方が理解への負荷が少なく親近感が生じやすくなる。
精神的共通点だけでなく物理的な共通点も信頼関係を構築することにつながっているからだ。

一度体験したことは脳内の記憶にアクセスするだけでいいということは理解しやすい。
では体験をしたことのない出来事の場合はどのように変化するだろうか。
自分が体験したことの近い記憶を探し、それを利用していることになる。
記憶の検索は負荷になりやすいという推論になる。

テキストの認知的な問題になるが、言葉へのイメージは強化されている方が連想されやすい。
テニスのラケットの振り方については、プロの選手の動画を見ていることでラケットの振りという言葉の連想は動画の内容で強化される。
もちろん自分でラケットを振る動作について体験したことがあれば、自分がアクションしたことのある動作の方が連想しやすくなる。
だがそれは頻度やイメージの動機付けなどに左右されるため絶対とはいえない。

イメージへの接続が強化されると理解することへの処理もスピードが上がる。
このことから考察できる2点の重要なことがある。

体験していない出来事による説明や会話については、体験したことのある人との理解の差ができる。
体験した出来事がない場合の理解においては自分で理解するフローを用意する訓練が必要になる。

この言葉だけを聞いていると何を細かいことを言っているのだろうとなる。
だが塾や学校の先生、上司による説明などの場合で考えてみてほしい。
そしてそのことが連続するとどうだろうか。
学習における記憶の差に記憶する出来事と関連するイメージとの紐付けなどが効果的であることは聞いたことがあるかもしれない。
つまり、同じ時間で同じテキストの認知処理をしていても記憶する内容は異なっているということになる。

この例は学習についてだが、スポーツにも部分的に同じことが言える可能性がある。


このことはあくまで考察に過ぎない。
また、先生にたとえ話や例について質問して授業を止めることができる人もいればできない人もいる。
上司の説明を例え話の時にその都度質問に時間を使用することも難しい場面もある。
重要なのは、理解のしやすさが異なることを知っていることにおける努力の工夫になるだろう。

以上、体験した出来事について考えたことでした。

グレーゾーンを考える能力をどのようにして鍛えるか。

言葉の概念は厳密には一人一人違う。
イメージや体験した事象、知識などから言葉を解釈するためだ。
例えば、日本について所持している情報の少ないイギリスに住む人と日本に住む人で寿司のイメージは違っていることが
多い。
海外に住んでいる場合唐揚げやアボカドを巻いている巻き寿司のことを連想しやすい。
これは海外のお寿司屋さんで体験していることをベースにし、過去の記憶にアクセスして「寿司」という言葉を連想しているためだ。
分かりやすいように海外の人と日本の人を例にしてみたが、同じ日本に住んでいる人でも言葉の概念は違っていることが多い。

所持している情報と比較して異なり、同じような情報代替案とも違っている場合受け入れることが難しいことがある。
思考の多くは0か1かの判断になりやすいからだ。
認知的は負荷をかけないようにしている人の習慣と考えることができる。
人の処理機能的な部分もあるが、これは訓練で変化することができるだろう。

言葉の概念は詳細まで理解すると自分の理論と相手の理論の共通点があり理解できることもある。
言葉の概念について言えば理解するコストを消費すれば、思想などの違いがない限り理解することは可能だろう。

これについてはスポーツの指導のケースでも利用することができる。
教える人の言っていることを実行しても結果にならない場合、指導方法が悪いと考えるケースがある。
このことは、指導されてから長期間試している場合自分の決断の問題になる。
今回は指導者から助言されて3日程度経過していると考えてほしい。
3日試してみてその練習方法が自分には効果がなったと判断することは情報が不足していると考えられる。
自分の運動特性や能力(速筋などの筋力レベルから運動のイメージを利用しての再現などいくつもある。)、理論の把握などから自分にとって無駄な練習とするには検証情報が少ない。
指導内容を理解して検証した結果が好ましくない場合、厳密に指導されている言葉の概念を確認する必要がある。
このことには以前にも述べてあり言及しない。

自分にとってスポーツで好ましい結果を望む場合、時間というリソースを使用して0か1かの判断ではなく、グレーゾーンについて考えてみることになる。
言葉の概念が違っているという場面はよくある。
子供の野球の練習で教わった通り規則正しい「ダウンスウィング」をしてしまい、ゴロしか打てない打者などは典型的な例だ。

さてここで理解したいのが、「考える」という言葉の概念についてだ。
スポーツでもどこでも「考える」という作業は発生する。
中には自分の運動特性を考えることなく教材のパッケージだけ実行して試すことだけが「考える」ということにしている場合もある。
教わった通りに継続して実行することもかなり優れた能力だが、程度の差はあれど「0と1の間の0.5について考える」ことは必要だ。

バッティングのダウンスウィングについて言えば、指導された練習パターンを試すことは実行していることだけだ。
もちろん自分のスウィングの軌道修正が目的ならば繰り返すことも必要だ。
しかし、教えられたダウンスウィングで結果にならないのであれば、「ダウンスウィング」について考える必要がある。

もし、指導者の教えられた通りの練習をしていて、結果になっていなければ以下のことが考えられる。

・練習の形は問題ないが、試合の結果につながるように意識して練習していない(練習のための練習)
・指導されている言葉の概念を間違えて理解しているため、結果につながらない練習になっている。
・自分の運動特性が邪魔をして、成果につながる練習になっていない。(指導された練習内容を正確に実行できない。)
・問題点が別の場所にある。

練習課題がダウンスウィングで最初の練習の形だけ真似ている場合には誰が見てもわかる規則正しいダウンスウィングになりやすい。
練習のパッケージをすることだけが目的になるのではなく、自分の成果にどのようにつなげていくのか考えた場合、ある仮説ができる。
ダウンスウィングにもレベルがあり、球種とコースによって変化させる必要があるのではないかという仮説だ。
もちろんこれは都合の良すぎる回答だ。
教えられた通りに練習ができる運動能力と問題への理解力があり、問題点がスウィングの軌道にある場合だ。
そのためこれはあくまでケースであり、練習の実行における結果の評価は詳細まで考慮することが必要ということを理解してもらいたい。

詰め込みで教えることが問題で考えることが重要だという意見が世間には浸透している。
そしてそれはどこでも聞くことのできる「考えることは大切」という言葉になっている。

しかし、考えることは大切と言っておきながら「自分で考える」という処理ができてしまいつつある。
考えることを教えるというのは「考えましょう」という処理を子供におしつけることではないということだ。
もちろん最初は、自力で考えることについて挑戦することも必要だ。
だが、考えることの概念について理解することを自分が生活していく中のどこかで幸運に身をゆだねて手にするというのは、言葉を知っているだけで理解していない。
人が知識を形式化し共有しやすくして今日のIQの高さになったのは、概念を定義して広めたからだろう。
ただそれも毎日の小さな連続で積み重ねてできたものだ。
わずかな思考の変化の連続にこそ価値があるという見方もできる。
今もこの瞬間もである。

今回のことが考えることについて自己概念化する機会になれば幸いだ。
あくまで機会であってこのことが思考の全てなどと言うのは過言だろう。
0と1の間について考えることは機会の1つでしかないのだ。

以上、グレーゾーンを考える能力をどのようにして鍛えるかについて考えたことでした。

スポーツを教える人の課題が試合による選手起用と育成マネジメントのみになるという理想

現在では様々な学習コンテンツが用意されている。
知りたいプレーの動画など検索することでおおよそ確認することができるようになった。
もしくは、結果を残している人のプレイしている動画について確認できる。

これよりもIT技術が進歩し、学習コンテンツがより良いものとなった場合、
スポーツのスキル向上には効果的な学習コンテンツの提供ができると考えることができる。
一部の人が理解していればスポーツは指導の細部まで理解している必要はないのではないだろうか。
運動技能の向上において言語化能力は欠かせない。
現状の部活動のシステムでは、スポーツをしたことのない部活の顧問になることもある。
このことは多くの人が認識ている問題ではあるものの、システムの代替案における意思決定すら難しい状態で、解決にはいくつもの実験的なシミュレーションをする必要があり時間がかかりそうだ。

現状の状態でできることはプレイヤーとコンテンツのマッチングをどのようにしていくかという部分にある。
効果的なコンテンツの提供ができれば、指導者の今後の問題は試合においての選手起用と育成マネジメントが主軸になる。
指導方法まで理解することなくチームを率いることができるのだ。

ただし、効果的なコンテンツの提供ができればの話だ。
難しいのは、プレイヤーの状態の把握になるだろう。
関節の可動域、筋力の強さや柔軟性、運動獲得から運動再現の誤差修正能力など評価されるカテゴリーの決定が必要になる。
プレイヤーの状態を的確に把握し、提供された情報によってメンタルモデルや動作反応、癖などを補いプレー改善のコンテンツが提供されることにつながる。
それをシステム化し実現できなければ選手の育成の問題をマネジメントのみにすることは難しい。

コンテンツの提供による運動技術向上には、「問題の把握」と「解決動作の実行」が的確になされる必要がある。
問題の把握は、運動動作のデータ化と動作比較などのIT技術などでクリアできる問題ではあるものの、解決動作の実行の修正が難しい。
ここで懸念されるのは指導者と選手自身がわからないことがわからないという状態になることだ。

良質な動画のコンテンツを見本にして動作検証する時のことを考えてもらいたい。
アドバイスされた通りに運動してもそれが検証対象の動作か確認できない場合がある。

様々な要因が考えられ、以下は例だ。
・運動の経験不足に関する問題
・筋力レベルの問題
・フィードバックのカテゴリー不足に関する問題
・言葉の概念の違いに関する問題。

野球のバッティングの場合に関する内容で言葉の概念について考えてみる。
アプリやコンテンツなどを利用してわかったバッティングの問題点はインサイドアウトの動作をできていない点という指摘があったとする。
(この問題把握もかなり高度な技術なのだが、指摘が可能だったと考える。)
インサイドアウトについてはバットにおける軌道の問題で改善された運動をイメージしてプレーしても改善されないケースがある。
これはインサイドアウトという言葉の概念が違うためで、インサイドアウトをできている選手の言葉の概念と比較し、自己の言葉の概念から検証する必要がある。
自分が考えている言葉の概念について再考する機会とする。


これまでのことを考えるとスポーツの指導者が練習の細部を理解せず、育成マネジメントのみになるというのは現実的ではないだろう。
それでもIT技術は進歩し、VRを利用してジムでサイクリングするなどの活用方法など模索されている。
運動動作の解析で、VR技術によって真横からだけでなく上部などから動作確認できれば、脳内におけるシミュレーションでのイメージは変化する。
有名選手から過去の結果の良かった自分のデータまで比較ができればいいが時間が必要だろう。
急な大きな変化は見込めないかもしれないが、小さな変化の連続が毎日起き、今後のスポーツにおける技術の向上を願いたい。

以上、理想について考えたことでした。

「学習」という言葉の概念

「勉強する」「学習する」といった言葉は小さい頃から聞いたことのある言葉ではないだろうか。
しかし、その言葉がどのような動作を指し示すのかについては語られないことが多い。
いや、正確には記憶するという動作の検証行為を意識するまでに時間がかかっているということかもしれない。

学習の成果は記憶してから何らかの形式でアウトプットすることにある。
記憶の検証行為に関して、テストの点数がフィードバックとしての役割と考えている。
だがそうだろうか、私たちが学習する目的は記憶したものをアウトプットして利用するところにあるのではないだろうか。

短期記憶のようなものではなく、長期記憶として保持し、自分が使用する時に自由に脳内のデータベースから利用することに価値がある。
理想的なことだが、学習したものを数十年単位で知識として保有し、それを利用していくことが目的だ。

メタ認知機能のことについて以前述べたが、学習におけるメタ認知機能を鍛えるには学習におけるフィードバックの検証作業を繰り返す必要がある。
一般に言われる「努力」の方法論について考え、効率の良い記憶のパターンを見つけるのだ。
子供にしても大人にしても「勉強する」「学習する」という処理(言葉の概念)の意味合いについて考慮することが必要だ。

例えば、四字熟語の学習で次の方法について考えてほしい。
・20分間ひたすらノートに字を書いて反復練習する。
・四字熟語となった物語の背景から文字の意味を考えて記憶する。
・文字をマインドマップのように既存知識と結びつけて関連性を明確にして記憶する。

どれが学習として優れているのかについては、個人差があり選択の問題になるだろう。
もちろん上記の方法は例であって組み合わせて自分なりの方法を確立している人もいる。
重要なのは、方法論について検証し、どの記憶方法が自分とって重要なのかを確認することにある。

このことは何も勉強に限ったことではない。
学習という動作が発生しているものは全て検討の対象だ。
だが、勉強ができる人から考えるとこれは特に考える必要はないのかもしれない。
教科書に書いてあることを現状の学校にように朗読し読み書きすれば全て記憶することができる人もいる。

最近気になるのは、このような「勉強する」という言葉の概念形成は親の収入などから形成された環境によって決定するのかもしれないということだ。
ただ、どれほど有益な情報があったとしても私たち自身が必要だと思わなければその情報へのアクセスは制御されている。
「勉強する」という言葉についての検証とフィードバック機能の確認がどれほど重要だと両親が言っていても、
学校の先生や親友、塾の講師など意思決定における選択基準となる人々が否定していれば学習の言葉の概念について疑問を持たないかもしれない。
この場合、「勉強する」という言葉についての検証とフィードバック機能の重要性について知ってもらうには思考のバイアスをどのようにして解くかというフローが発生することになる。


スポーツのことについて考えてみよう。
スポーツで解剖学は必要と理解はしていても、
人の身体組成について勉強することは退屈でモニターの画面上で動くパワーポイントを眺めているだけかもしれない。
しかし、プロの世界で活躍してきた有名な方が動画で身体組成の情報を利用して成果を出した方法を説明していたらどうだろうか。

身体組成の部位名など関心がなかったかもしれない。
だが、有名選手という既存知識とつなげて自分が利用することでどれほど有益な情報になるか知ることで、学習の質は変化する。

このことから考えると、自分の体験していたことや所持している知識に接続しやすいものの方が記憶されやすいということになる。
当たり前といえば当たり前だ。
マーケティングや物理学、マネジメントなどの専門的な知識を学習しようとした時、
自分の専門分野で説明されていること方がイメージしやすく学習しやすくなる。
既存の本や抽象的な言葉から自分の体験や知っている知識などで言葉の概念を理解することにはいくらかリソースが必要だ。
関係のない事柄を語呂合わせで学習することにもメカニズムがありそうだがそれはまたどこかで。

ただ、言葉の概念の確認にも課題が発生する。
自分のフィードバック機能をどの周期でどの程度確認する必要があるのかというものだ。
現状これには個人差があるため自分で方法について検証していく必要があるとしか言いようがない。

普段に何気なく使用している「勉強する」「学習」という言葉だが、その方法については自分で考える機会は少ない。
既存で使用したことのある学校の方法がベストだと思っているからだ。
過去とは違い社会人になっても勉強して成長することが求められる昨今。
自分の「学習」方法について少しばかり問い直すことも必要なのかもしれない。

以上、「学習」という言葉の概念について考えたことでした。

人の認知動作が完璧でないことを知る価値

これまでどのようにフィードバックされることが望ましいかについて述べてきた。
ただ、1つの方法論については限界が存在する。

何が言いたいのかというと、認識動作そのものが完璧でないことを知ることでフィードバックの方法について考えることになる。
自己のメタ認知そのものについて考え、対応することへつながる。

これまで考えてきたことはある一種の対応方法だった。
ケースによって対応方法を考えていくことが必要だ。
人の体の構造を理解した上で改善していくメリットは確認カテゴリーの形成が容易になることにある。
そして使用する改善方法の本質を理解しやすい。

多くの人にとって事象を把握して改善することは毎日のように行われている。
人の認知システムそのものについて言えば問題のないように考えられるが、認知システムが完璧ではない点というのはどのような部分だろうか。

それは、人の認識によって形成されるイメージは補われるというところにある。
外界の情報を受け取る感覚器官については義務教育で学習したことだろう。

視覚からの情報は8割を利用している。
角膜やガラス体を通り網膜に光が届く。
その光を錐体細胞と桿体細胞という2種類の光受容体細胞が受けることになる。
そのあとは視神経などを経由して視覚皮質へと情報が送られる。

これらの複雑な過程によって外界から受けとった光の情報を私たちは処理しているが、外界の情報を完璧に処理できているわけではない。
例えば、以下の図のように完全な文字の画像でなくても、何が書いてあるのかを把握することができる。

f:id:sports_doit:20170717210547p:plain



「アルファベットのA」テキストがあるとさらに認知しやすくなる。
私たち自身の視覚の情報は補われて処理されているということだ。

このことからスポーツのパフォーマンスを視覚で確認するとした時に完全に自分の運動を把握しているとは考え難い。
自ら運動している途中で、自分の動きを認知している時も視覚や所持しているスキーマで脳内に送られた情報は補われている可能性が高いからだ。
もちろん注意できる容量を限定して動作の認識をすれば部分的にある程度まで把握することは可能だろう。
それでも人の視覚処理機能の観点から考えた場合、自分の動作を完全に把握しているとは言い難い。

また、以前にも述べた視覚における事象の把握には注意の動作として限界があるということも理解しておきたい。
注意の機能は、「集中的注意」「選択的注意」「分割的注意」「予期・期待」の4つに分類できる。
スポーツなどの動作確認などについては選択的注意を利用しているが、確認した内容における運動動作の確認については他の注意の機能も利用している。

自己認知が完璧であることを前提の場合、悪い要因として考える対象となるのは方法のみになる。

しかし、認知が完璧でない場合においては改善カテゴリーへ以下3点が含まれるようになる。
・運動動作をできる限り正確に認知をできているか。
・把握した動作を自分で実行する場合について実行した内容のズレは極力少なくできているか。
・これまでの経験のデータと比較した時、認知の限界によってのエラーかどうか。

この2つの確認は自分が変化することによって問題を解決するということにつながりやすい。
方法論のみに依存したフィードバックは、外部要因のみを改善の対象としやすくなるからだ。
自身の把握機能の改善を目的とするのは、内部要因に問題解決のポイントがあると考えることになる。
人の認知動作が完璧でないことを知ることは謙虚さと呼んでもいいのかもしれない。

ただ、問題解決の要因としてはバランスを考えた方がいい。
「客観的に考えること」における因子は内部要因と外部要因を含めるもので、どちらか一方であるケースは少ない。

ここまでのことをかなり簡単にまとめると自分の認知していることは事象の全てではなく、問題解決の視点には外部要因と内部要因から考えた方が良いということだった。

人の認知動作が完璧ではないことを知っていても、働いている限り常に改善することを求められ、
結果的には必要性を感じないかもしれない。
また、認知システムは個人個人によって処理機能も異なる。

アドバンテージとして考えられることは問題解決カテゴリーの抽出に情報を利用できることにある。
このことは私たちが問題解決における思考を飛躍して利用できるようになったことも関連してくる。

以下の記事を確認してほしい。
http://blog.tinect.jp/?p=41430
「分類や、推論といった、抽象的な思考を使うことに慣れた」とある。
このことは学習における発展と習慣によってもたらされた事象という見方ができる。
それであれば、認知動作が完璧ではないと知ることで改善策の思考における変化が生じることになる。

これもある意味では完璧なものはないという抽象的な思考を人の認知能力のケースで考えれるようになった結果なのかもしれない。


以上、人の認知動作が完璧でないことを知る価値について考えたことでした。

スポーツニュースとプレースキルの向上

ニュースのスポーツコーナーで元トップ選手が解説をしていることは多くの番組で見かける。
過去に活躍していた選手を見たくて見ている人もいるかもしれない。

最近の内容は、誰にでもわかりやすいようにしようという工夫が感じれるものが多い。
人気スポーツのサッカーや野球などについては、あまり詳しくない人でもわかるように解説している。

中には、とても技術的なものについても取り上げているものもあり、初心者にはわかりにくいだろうなと感じるものもある。

それを感じたのが、水泳の内容だった。
背泳ぎの選手について解説していたのだが、バタ足の位置が比較した選手よりも水面付近になっているという内容だった。
そのために他の選手よりも体が水面上に出てきていた。

結論からすると水面付近に体を浮かせることができるように泳げると速くなるということになる。
だが、これを方法論として真似ることは可能なのだろうか。

比較内容は、筋力レベル・泳法・骨格・パフォーマンス中におけるペース調整のメンタル状況などが考えられる。
筋力だけで言っても体幹を含めた泳いでる途中の姿勢維持から、筋持久レベルの強度など様々な内容が挙げられる。
難しいのは、スポーツニュースだけを見た時に水面付近でバタ足を意識することで背泳ぎのスピードが上がるという解釈をしてしまいやすいということだ。
最初に述べておくが、スポーツニュースで少し複雑な運動のコツを紹介することが問題とは考えていない。

スポーツの見る側が多面的に考えることがポイントで向上における要因は様々に考えることができる。
もちろん、1つのポイントの改善によって異なった複数の悪かった点が改善されるということもある。
この場合把握しておく必要があるのが、改善される前と改善した後においての比較が必要になる。
水面付近におけるバタ足による意識によって、自分のフォームや筋力にどのような変化が発生したのかを把握するのだ。
それが今後の課題の把握につながるだろう。

私たちの注意できるリソースは限られているため、無意識に運動動作を行えるようになるまで気の遠くなるような修正作業が発生するかもしれない。
認知的なレベルで考えるといかにして、社会的認知から物理的な思考に変化できるかにある。
スポーツのニュースでは、有名な選手が多いことから欲求、期待、価値、態度などよって伝える側の過去に影響される面もある。
つまり、「何を言っているか」よりも「誰が言っているのか」が重視されやすくなってしまっている。
もちろん結果を残している選手であるため、期待できるアドバイスも多い。
ただ、有名選手の言葉を自分にとって有効なものにするためには、自分の体験で結果になったことと比較して、向上するための材料にしてくことが必要になる。
有名な選手の言葉を解釈することによって、自己の言葉の概念の意味と照合し理解する。
理解した内容を自分にとって有効な運動動作のイメージへと変換していくことになる。
だが有名なスポーツ選手の言葉も使い方次第ではただの言葉にもなってしまう。

スポーツのニュースの解釈は楽しめれば良いという人からちゃんとした解説までしてほしいという人まで様々だ。
事実だけを伝えるニュースにはそれなりの役割がある。
日本のニュースがスポーツにおいて詳しくなっているのはそれだけニーズがあるからで、それが文化的な部分で根付いているからだろう。
スポーツのコンテンツ消費者が言葉の概念理解をより具体的なプレーの楽しみ方をすることで10代の選手の意識も変化するのだとしたら、新しいプレー向上の関与となるのかもしれない。


以上、スポーツニュースの解説への解釈について考えたことでした。

メタ認知とヒューリスティックス

行動の改善において重要な役割となるのがメタ認知だ。
メタ認知をかなり簡単に言うと「認知についての認知になる」。
つまり、自身がどのように学習しているのかというプロセスを考える手段にもなり得る。
メタ認知的活動としてのモニタリングには認知についての気づき、感覚、予想、点検、評価などが含まれている。

例えば、ゴルフのスウィングの飛距離を伸ばすことについて考えると練習をすれば良いという処理になりがちだ。
だが、飛距離をどのように伸ばすのかで練習方法も変化する。
目的に沿ってマネジメントされていない練習をしていては、非効率な練習になる。
狙った場所へボールを打てる飛距離の向上となった場合、アウターの筋力だけでなくインナーの筋力の向上も必要になるだろう。
ゴルフにおけるスウィングの癖や体格、プレイスタイルなどでどの程度でどの部分の筋力を向上させるかが決まり、変化させる箇所を決定する。

このようにメタ認知のコントロールには、目標設定、計画、修正などが含まれ行動の改善に必要になる。
メタ認知的活動は無意識の状態でも行われることもある。
そのため、必ずしもメタ認知的活動が思考や話し合いの対象とはならない。
だからこそ、トッププレイヤーの中には他人へ自分の成長した過程を説明できないケースもある。
これは、自己における行動修正が意識下によるものではないため、改善フロー1つ1つを定義化していないことが理由とも言える。
名選手が名コーチにならない部分の理由の1つなのだろう。

学習行動においてメタ認知的活動が重要な役割を果たすことは理解できる。
メタ認知の活動が正確できていれば、私たちはエラーを起こすことはないだろう。

エラーにもポイントがある。
それは、知覚、解釈による処理、実行のプロセスにおける部分だ。
とくに処理における部分のエラーについては致命的なものがある。

それはヒューリスティックスについての問題解決機能が要因となりやすい。
しかし、認知におけるスキーマスクリプトによって形成されているヒューリスティックスがヒューマンエラーになりやすいのは限定した部分で許容する必要がある。

ヒューリスティックスは、問題解決において過去に経験した手続きのことを示しており、認知容量を使用しないものが多い。
人は問題解決においてヒューリスティックスを使用しやすいのだが、これについては通常の作業処理を行う場合非常に役立つ。
間違ることのリスクを背負ってでも私たち自身はヒューリスティックスを使用した方が快適に生活することができる。
そのためヒューリスティックスのリスクを理解して処理を継続するか、処理によるエラーのポイントとなる部分へあらかじめ対策処置を行うことになる。

これまでのスポーツにおける指導で、体罰などを利用してきたことにも同様に理由が言える。
一度成功した指導方法の処理(ヒューリスティックス)が間違いだと指摘されるまで利用してしまったのはある意味人の惰性なのかもしれない。
現状の人の処理における簡略化のためにヒューリスティックスが利用されることは、前提として理解しておくことが必要になる。
全ての事象や物事において何度も時間のかかる処理を継続していくことは認知的な負荷がかかるからだ。
だとすれば、私たちは自分自身の評価と判断の基準において確認する術を所持することが必要になる。

メタ認知が重要ということは、多くの文章によって知ることができる。
その理解があれば次は、どのようにメタ認知を設計していくのか把握と検証からの改善行動がポイントになるだろう。

以上、メタ認知ヒューリスティックスについて考えたことでした。