スポーツに対して物理学を利用する尺度

スポーツに物理学を利用する方法はプロスポーツ選手が利用している内容を本で読んだことがあるのではないでしょうか。

物理学をスポーツに応用するとして、それが流体力学からニュートンの運動力学の把握、コリオリ力を理解するために二次元回転座標系のベクトルなど詳細まで理解するときりがありません。

では、物理学を学ぶ必要があるかどうかという話ですが、プレーヤーがスポーツを上達するために理解する必要はありません。
ただ、利用するのであれば視覚や感覚が必ずしも正しくないということにつなげることに意味があります。

視神経によって人の視覚のズレが補われることから、プレイヤーの感覚も筋力の衰えによって変化することをどのように評価するかという基準が変化したことを受け入れたことにあります。

 

コペルニクスが地動説から天動説への疑問を投げつけることでさえ、アリストテレスが築いた知識の運用が新しい解釈の壁になっています。

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自分が現状持っている感覚や尺度がいかに誤っているのかを体験することになるのは、魔女狩りをした中世よりも、宗教が阻んだ科学への見方の方が理解しやすいかもしれません。

 

 

歴史の話になってきましたので、視点を変更してみましょう。
例えば、漁師が天候と時期、そして温暖化によって把握していた内容を感覚に頼っていたものを調査機器の進歩と魚の生態系を理解することによって生産性をあげたとします。
地動説への変化も、観察へのアプローチの変化と観察する器機の進歩が関与して、宇宙のより明確な内容を知ることができるようになりました。

どちらも、レベルは異なれど、内容は伝えたい話との差異は変わりありません。

 

歴史から学ぶことが様々な問題を防げるのかというとある事象と人の認識構造を抽象化し言葉の利用によって、心理学や行動経済学、生理学など複雑に絡み、時間をかけて対処する必要があります。

そして、これがスポーツにどのように関連しているのかは、自分の感覚と調査している機器の進展による自分の運動をどのようにして理解するかに回帰します。

例えば、投球のポイントでボールのリリースするポイントを理解したとして、それが運動とした時、遠心力によって実際には現実化したいモーションとは違っていることに気がつくことにつなげれます。
ただし、これは見てる人からすると1秒以下の内容となりなかなか気がつくことができません。

 

現状は、物理学の内容をスポーツへ取り入れることはプロの選手ほどとりいれやすい環境になっています。
ただ、実際に必要な選手は、努力していても運動神経は悪くないにもかかわらず、それが結果にならないことを細分化して理解できないプレイヤーです。


コペルニクスなど500年も前のことを今さら引きずり出してそれが今の自分たちのどこに無意識への処理構造として役立っているかはわかりません。

むしろ、当たり前の常識になっていることにこそ、人の進歩が垣間見える瞬間でもあります。

感覚を大切にすることは、人らしさであって逆に全てを定義される物理学を基準に把握するのは人の処理機能から考えると現実的はありません。

良い動画などでうまい選手は伸びていき、それを補えない選手が時間をかければそれを補えるようにできるシステムは理想です。
動作の確認などは、どの段階でどの指導が最適なのかは、個人の動作のクセや認識動作まで加わるため、現状AIでは補えません。
それをおぎなえるようになった時、スポーツの上達は指導者に左右されない最低ラインを保持することができることが考えられますが、それは手塚治虫さんが書いたアトムの世界同様まだ先の話でしょう。

 

 

それでも、地動説が一般的だった世界から現状の世界への進展への比較からすると、それほど幻想な世界ともいうほど離れていないでしょう。
それは、スポーツを考える道具として利用できる一歩と呼べるのかもしれません。

アリストテレスからガリレオニュートン、そしてアインシュタイン相対性理論へと繋がり、その理論の応用がインターネットやGPSに利用されているのが現在です。
完璧なAIによって人が虐げられるSFの世界があります。
知識の継承でできた人の感情を理解できるのが完璧のAIとすれば人を支配するAIはそもそも完璧に見えないのではないのかということも含め、AIの解釈もスポーツの解釈も未来では変化しているでしょう。

物理学をどのように利用するのかと同時にこれは自分が見てる視点をどのように変化するのか、でもあります。
だからこそ、「スポーツで利用する時に物理学を利用せよ」ではなくプレーの向上における選択肢の1つとして捉えることを今回の内容は示しています。

高校や中学の時に知った歴史上の人物は、歴史上の人物としてよりも今も知識として私たちやスポーツを含めて関係していることが価値見出しているのかもしれません。

文化と形容されるものの影響

「文化」という言葉はあります。
実際には、自分の意思が最大の優先順位の頂点に君臨しており、「文化」が選択の基準に及ぼす影響など微々たるものだと若い頃は考えていました。

ですが、実際「文化とは」を考えた時影響はかなり大きなものです。

詳細は以下を参考にしてみて下さい。

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方法次第では、文化という内容は人の選択の基準を基盤する良し悪しをさえ決めてしまう要因さえ持ちます。


ここで疑問に考えたかもしれませんが、スポーツと文化の問題の接点は把握して考え尽くしているのではないか、という点です。

自分たちが生きている社会の枠そのものは普段から体験しており、それを軸にして判断しているのだから文化とスポーツについての考えられる影響というのものの必要が考えられないというものです。

これは、私自身も言語化するまで意見程度に考えていましたが、成熟期と考えられている現在は無視できない状態です。

現状の選択基準において、個性を尊重する動きは徐々に浸透しており、高校野球の球数制限なども個人のスポーツ人生を長く見ての配慮になります。

この内容に、日本の文化的な側面と個性の尊重という内容が含まれつつありますが、モデルについての議論があまり存在していないことには疑問があります。

私たち自身がどのようなモデルを獲得したいのかという意見がないことはもちろんですが、
それを選択する基準そのものについてメリットとデメリットを語られていることが少ないのです。


自分の意見や個性の尺度の設定など、文化という事柄から考えると日本は組織に委ねる部分が大きいものでした。
「それは重い」「意識高すぎ」という主張があるのはもちろんいいのですが、事実的に直面している問題に対して、考えなくてもいいフローを利用していなければこれは成立しません。


行なっている動作や思考している内容が現実的に落とし込まれていないものは論外ですが、考えなくてもいいフローを運用してきた結果が現状です。
この問題は、「選択せよ」ではなく選択するためのデータが存在していないことにあります。


しかし、成長が止まった社会の背景やゆとりの導入からsnsの意見の交流など含めて、今までの運用プロセスに関する問題が様々に浮上しています。
残念ながら、過去の成長しない部分をいくら嘆いても過去に戻ることはできませんし、現状の価値観という選択を正しいとした以上は、新しい選択肢を選びそれに納得する内容を見出す他ないというのが現状です。


ただ、いくら個性を大切にする選択肢が文化の影響に受けるとして考えることが必要としながらも、組織の一員として身を委ねることも時に心地良い部分もあります。
これを完全な合理的なものが人でないのであれば、考えることをせずに行動し続ける側面も持つこともまた人なのだと実感するにはいささか都合が良すぎる解釈なのでしょうか。

いずれにしても、私たち自身が過去の体験によって得た内容を80年という平均寿命を元にした場合にその長さを維持できるほどの安定した社会でどのように自身の価値観と与えらた情報によって選択基準を変化させるかということを望むモデルから選択していく必要があります。
現実には、日本の価値基準そのものから得れるモデルというものが、存在しないことも含めて現実に落とし込んだ内容に関して、スポーツの立ち位置を含めて考えていくことが必要でしょう。

それが結果、ストレス解消であることも楽しむことのみであることでも問題ないですし、
個性の主張という変化から5教科が優先順位にされている進学へのアドバンテージを部分的にスポーツへ移行することでもいいでしょう。

もしスポーツの指導へ改善が見込まれる場合は、スポーツに関する思考の利用を変化させることになるので資格から指導方法まで着手することになります。
かなりの負荷とプロセスを変化することになりますが、実際的な問題への優先順位とどのようなモデルにしたいのかに現実的な落とし込みが必要です。

現状は、個性を大切にすることは意識されつつも結果と練習に関する内容はボランティアに近い指導者に委ねられています。
保護者の強い要望によって書類整理が増え、教えることへの時間が足りなくなる現状を考えると、暖かさがないと言って教材への簡略化が進まない現状には今までの言葉が無にされてしまうというのは過言ではありません。
実際に着手する問題はスポーツという課題なのかということもあり、教材に対する暖かみと子供へ接する暖かみ、保護者への対応(エビデンスを含めて)を比べることも含めて、「意識高すぎ」というセリフのCMが頭をよぎるのが昨今です。

 

結局はどこかで選択基準の変更をする他ないのですが、スポーツの物語が変わりゆく社会にでさえ希望を与える役割が変わっていないことに、ベーブルースが病気の子供のためにホームランを打った逸話が現在のプロの選手が同じように受け継いでいる今に敬意を示したい限りです。

新しいトレーニングについての議論の根底あるもの

どんなものにも役立つかどうかという疑問はつきものです。
レーニング方法にも新しい科学的な部分で変化することがあります。

これには文化的な基準と物理的な影響などがあり把握できます。
文化的な基準は、野球で言えば投げ込みにおける感覚との再現確率の向上と自信におけるメンタルの強化などが当たります。
物理的な側面は、映像からの確認と数値化などが挙げられます。

これらを簡単に言えば採用基準を自分で検証することに対しての価値観です。


[役立つ]に関しては、学習内容ついても議論になっています。
家庭科での裁縫を今も必要かどうかというのは議論されていた記憶があります。
しかし、これは役立つものに対しての変更するプロセスが確立されていないという問題があります。

公共教育などに対して評価基準のプロセスを見直す基準の設定が困難ということにあります。
過去への内容は、組織の行動のプロセスの変換自体が戦争や革命などがあったことによりますが、70年以上も同じスパンで利用していた場合、明確に何かしらのフィードバックする基準が必要です。
他の国の競争相手が存在していない江戸幕府などのような状態であれば別かもしれません。

情報の授業などの追加など変更はされていますが、大学などの小規模組織へのアプローチなどから全体に反映されるプロセスはあまり議論されていません。
スポーツなどから得られる情報をどのように得られるかという観点からも、この部分は無視できないでしょう。

学習内容における優先順位基準そのものを把握していたことがないもしくは、それをどのような妥当性を保持させるかのデータがないという問題が難関かなと考えます。

「役立てる」という言葉は、意外に問題であり、意識次第でどの科目も役立たせることができます。
技術の授業にしても、体育のスポーツから5教科でさえ同じように言えるでしょう。

では、意識で「役立つ」を決めることができるのであればトレーニングにしてもあまり意味がないのではないかという疑問になります。
ただ、意識して学習するプロセスを他のものへ応用することにはそれなりの時間と訓練が必要です。


例えば、以下2点を考慮してみましょう。

スポーツで改善行動をしたとして、それをビジネスで運用するという内容をプロセス化する。
セブンイレブンでの商品開発の食感を数値化することや開発流通における温度設定などの管理プロセスによる改善行動を、木材提供などへの改善行動へプロセス化として利用する。

(必要かどうかは別です。)

 

抽象化した物事のプロセス化を応用しているという点では同じです。
ただ、人の心理学や行動経済学などを含めてスキーマの処理などを含めるとこの作業が通常の人が行うのは非現実的なケースもあります。


この内容が何かというと、
プロセス化において実学として社会で利用すること考慮した場合、どの学習内容でも個人の訓練次第でどれも「役立たせる」ことは可能です。
意識することの内容次第というのは誰もがいうことですが、「必要な学習」という内容も戦後に形成された内容と現状では、異なります。

私自身が保守的な部分もあり、すでに利用している指導方法を無理に変更していくことを受け入れがたいことも把握しています。
そのため、変化することに対して問題がないので変化しないのではなく、ある新しいカテゴリが発生した場合における優先順位を変更するプロセスが稼働するプロジェクトが必要になるのではないかと考えています。


これにはさらに一つのフローが必要で、自身の所持する感情と起きた出来事に対して区別して選択を行う訓練が必要になります。
スポーツやビジネス、個人の健康を維持する行動を良い方法があれば選択するというのは現実的でしょうか。

何が言いたいのかというと、良い方法を選択するには限定された条件が必要で、常に人は平均的で合理的な人ではないということです。
ケースによっては、常に努力をしている選手が監督の好みによって試合に出ていないこともある意味自然です。(プレーのセンスから親の関係など様々です。)
健康に悪いと知っていても日々のストレスで喫煙することの方が現実的な人です。


役立つかという議論が必要なのは把握していても、実際に行動に落とすことについては時間が必要です。
それを「才能がない」という形容の仕方で時には諦めることも必要ですが、私たちは常に良い選択ができるとは限りません。

言い換えると、
私たちの「合理性」は現在のコンピューターのように行動するかどうかの選択基準ではないのです。

そして、話を戻すとスポーツのトレーニングの選択基準の採用に効率性を持たせるのであれば、検証と採用のプロセスにおいて決定者のプロセスパタンから考える必要があります。

 

スポーツのトレーニングにしても、公共機関の学習内容も、
安定を求めることと、向上のために変化する基準を数値と感情として受け入れやすさから考慮した体験が子供の時に設計されるデータと妥当な基準を求めて、ようやくスタート地点となるのかもしれません。

チームにおける統制

チームにおける統制と態度の悪さについて教える側としては、教えるチームの統制を取れた方がいいものです。
そのため叱るという方法はとても有効に感じられやすいものです。

 

しかし、プレーヤーの態度の尺度を正す場合や気分が悪いために怒鳴るなどの強硬手段と区別がつきません。
選手が自主的に率先して行動する場合と恐怖を避けるために行動することも区別がつかないケースがほとんどです。


組織の統制のために叱ることも必要です。
暴力を利用していた時代は努力すればいい時代であればよかったので問題はありませんでした。
社会で生きていくためには、ある程度チームとのコミュニケーションを取れて計画された業務をこなすことで個人の生活が成立していた部分があったからです。
もちろん、継続することを忠実に実行することはかなり労力を必要とするため方向さえ間違えなければ相当な能力にさえなります。
ただ、検証と改善のフローが必要になることが経済が伸び悩んだために必要になったことは確かです。

そのため、「努力」自体の概念を変化する必要が出てきました。

しかし、これでは努力するはわかりません。

 

今度は当たり前のことを考えてみましょう。
スポーツに「考える」は本当に必要なのでしょうか。
考えなくとも勝てばいいということも間違いではないというのは私の持論です。

楽しむことがスポーツに必要ですし、苦しんでまでスポーツをする必要はありません。

また「考える」ことは必要だと色々なところで訴えてられているのですが、それを「考える」が考えられてないことも違和感があります。

 

それでも指導者の言うことを自分の行動へ変換して考えないとプレーは向上せず、プレーが向上しなければスポーツは面白くない

 

基本動作レベルまでは指導者によってある程度コントロールできますが、プレーの詳細度の概念が向上していくにはどこかのフェーズで選手自信が考えるフローへ移行することが必要になります。

 

組織が属している目的によって「考える」概念をどのように設定するかが必要なのです。

 

スポーツの組織の統制によく力を利用されていますが、スポーツをする動機が「技術の向上と組織の勝利」であれば力は必要がないでしょう。
殴るなどの制裁をするのであれば、試合に出さないや何かしらのペナルティを課せばいいので、もし力による統制をしているのであれば指導者の過去体験を継続しているにすぎないでしょう。


理想で現実のプレーヤーは態度を変えないどころか力による統制でなければエラーするということも言い分としてあるかもしれません。
もちろんその反論は必要なのかもしれませんが、脅威による思考停止よりも改善のプロセスの方が重要です。
過去に教えていただいた指導者で力による統制を利用している方もいましたが、練習が上達しない真面目な選手ほど効果がありませんでした。

もちろん例外と「真面目」のレベルによってこの内容は成立しません。
力による統制も実際の行動で言葉にしなければ、内容が異なります。

 

監督が教える内容の練習モデルを着実にこなしながら、理解の言語化とイメージの差でミスし生真面目だからこそ結果にならないというプレーヤーがいました。
遺伝子ではなく、指導者の伝え方や理解の過不足によって選手の向上が損なわれることは避けたいと考えながらも、現実は難しいなと考えます。
勝たなければならないという私立のスポーツ指導者の力によるチーム統制や、過去の方法を利用してしまうことも逆にそれは人らしさであり、急に変えろということは難しく現実として、誰かが犠牲になるモデルが必要だったりするのが現状だったりします。

 

それでも、半世紀のスパンから比べると力による統制が変化しつつある内容は希望だったりします。

 


チームにおける統制と態度の悪さの改善においては、感情を利用してチームを活性化することは必要ですが、それも使い所でどのようにケースで感情を排除した分析も利用し改善フローを用意するかが必要なのかもしれません。

 

 

成功率を高めることと目的への注意動作の設計

目的を意識的にもつことは重要という話を聞いたことがあるかもしれません。

進学、就職、業務、社会構成、地域におけるコミュニティ、目的における生産性の高さと意味付けによって
自分の生産性を高めることに役立つことは、その言葉の利用頻度のために無意識にさえ把握しているほどです。

 

例えば、英語を学ぶために海外に行くという目標があったとします。
英語を学ぶことだけで言えば、日本でも可能です。

滞在期間が短いのであれば、英語を無理やり利用する期間も短いので日本で外国人の英会話講師と交流をする金額とどれほど違いがあるのか検討が必要がかもしれません。

これは海外へ留学することが悪いという内容ではありません。
では私はなぜこんなにも否定的に考えるのでしょうか。

英語を学ぶ目的ということの前提は、英語を手段としていないということです。
英語を学ぶ目的の上の目標が、交渉や海外の人の価値観を把握して日本とビジネスに利用することなどであれば、言葉の概念から、イントネーションに関する解釈の把握、マインドなどの内容を把握して、それを利用する体験によって海外で学ぶ価値が発生します。
英語のみを利用する環境で英語を学ぶことに価値があれば、それは留学する価値がありそうです。

目的という言葉の概念をどのように定義づけるのかということは、フィードバックの材料にもなるため、
自分の優先度が高い目標であれば利用することが好ましいでしょう。

これは、普段の会話でも同じことが言えるでしょう。
では、この目的に関して詳細度を高めることに関与している内容は、どのようなことでしょうか。


それは普段の会話です。

 

 

例えば、バスケットでオフェンスをしているポイントガードがノールックパスをした内容に関して以下の言葉のやりとりがあったとします。

「あのパスがあったから、得点につながった」
「ノールックパスの前に選手が目と体でフェイクを入れて、他の1人の選手がフェイクになってそれで得点した選手がフリーになった。」

普段の練習で、どのように選手を把握しているかをコート上にイメージングして、それをどのようにプレーに利用するのかという発想へ思考がリンクしやくなることでしょう。
そしてこれがフィードバックへ繋がりやすくなります。

もちろん、無意識によってこれらができれば問題はありません。
私としても無駄なので、できれば言語化はせずに目標が達成できれば良いと考えます。

しかし、人はそこまで言語理解に長けているわけではありません。
私は中学時代に軟式野球をしていて50人という多い方の部でしたが、
レギュラーになっている人とそうでない人は、わずかな差でしかありませんでした。
バットのスウィング軌道が10cm前後の違いであったり、守備の動き出しの腰の位置の高さが異なっていただけです。

その習慣化の違いによってその後レギュラーで、自信がつき経験などでも差が出ていきました。

 


しかし、すべての目標において詳細度を考えることは現実的はありません。
私も無意識における処理の自動化を利用していくことの方が生きていく上で感情的な負荷が少ないと考えています。

それでも、僅かな差でスポーツを楽しめるのかどうかの差がでるのであれば目的の詳細度を今一度考える必要があるのかもしれません。

「いずれわかる時期がくる」と無意識

意識と無意識という言葉があります。
この言葉は、多く理解されているかもしれません。

現状では科学的に未だ意識は厳密な定義がされいません。
ここでは意識を自分の意思によって注意できる範囲として扱うことにします。

意識と無意識を把握していても使うことができないから無駄ということを考えるかもしれません。
本当にそうなのでしょうか。
私たち自身が、無意識に「無意識を把握することは無駄」という処理をしていることになっているのかもしれません。


糖尿病の人が、糖分を控えるという問題の解決は多くの人が理解していることです。
しかし、無意識にその人が行動ベースに行っている糖分を控えるというプロセスを考慮しなくては、この問題は解決することは難しいでしょう。

 

そもそも、生活習慣病などの病気に解決策が、何かを控えるアドバイスで達成されているのであれば、生活習慣病というような名称で多くの人が知っているはずがないのです。
人の「〇〇を控える」という言葉の内容を細分化して、自分の行動ベースまで落としこむ必要があります。

これは、スポーツにおけるメンタルでも同じこと言えます。
特にスポーツは、運動を意識的な練習によって無意識へと習慣化する目的がほとんどです。
水泳であれば、水をかく腕の動きと入水角度における水への抵抗を減らす運動を意識から無意識へ変更させます。

サッカーでは、どうでしょうか。
ディフェンダーは、中盤からフォワードへのボールへのパスにどのように反応しているでしょうか。
攻撃パターンを把握し、フォーワードの動き出しを目線やパスをする選手のボールを蹴る角度からボールのスピード回転における靴先のわずかな差まで無意識に把握しオフサイドで他のディフェンダーと連携する処理が行われ、フォーワードへボール渡さないようにしています。

無意識も自分の中でパターンとして認識することで、介入することが可能な動作になるケースも存在しています。
私たち自身が無意識をどのように把握しているかは、さらに日常的な部分から考えてみましょう。
リモコンのボタンが押すのではなくスライドさせるような仕組みになっているとどうでしょうか。
ボタンという認識によって行動が処理化されているためにスライドさせるという動作は使いづらい人もいます。

もちろんこれらは、すべて自分が目的する方向へ変更するという意味ではありません。
時間をかけることでしか一度設定された行動を変更することは困難です。
私たち自身が無意識という処理は使えないのではなく、自動的な処理として利用し、さらにそれによって新たな問題へ取り組むための動作なのです。

 

感情も無意識の処理であり、それは子供時から触れた情報の内容という見方ができたりもします。
学校のシステムや大学までの学習内容の選択の幅を考慮した場合、私たち自身が現状の無意識における情報設計と無意識の社会モラルを常識として所持しそれが行動の指針となることが考えられます。

もし、ここで興味がなくなってしまったのあればそれはスポーツや自身の興味から外れて無意識に処理が働らいたことになるのかもしれません。
それは感情として面白くなくなったという判断なのかもしれません。

 

では、感情は遺伝子でそれ自体が設定変更できないものなのでしょうか。
しかし、私たちは知り得た情報でしか判断できないのではないでしょうか。
それは今後理解されることで無意識として向き合うには難しい段階なのかもしれません。
感情と同じようにスポーツも無意識における脳の自動化システムで支えられているのだとしたら、無意識には向き合う価値があるのでしょう。

 

特定の人物における「いずれわかる時期がくる」を理解するための判断基準が科学的根拠なのか、自分における体験ベースなのかという違いであるのであれば、自分が体験したことと無意識について、必要な部分について理解することが必要なのかもしれません。

メリットとなる前提は目的で変化する

仕事にしてもスポーツにしても自分自身が動作していることに関しては、
接続する知識とイメージング、目的を達成する時間と達成した内容の精密度が上がります。
これは、目的として意識することが何かが明確な場合であって、それがこなすことであれば役立たない練習にさえなります。

 

これはものすごく当たり前のことを言っているように見えます。
スポーツを長く継続していれば、専門種目として上達することはある程度予測することができます。
これを抽象化して考慮してみましょう。

仕事として、陶器職人で器を作成することを目標とする高校生がいたとします。
理科の実験おける熱の伝達に関して、陶器を焼くことへつなげるイメージを持ちやすくなるでしょう。
物体における熱の伝達について把握した場合に、どのように陶器を焼く気候と季節で左右されるかを把握して火の温度を調節するのかという処理する確率は高くなります。

現状では、役立たないものを日々の生活に役立てることができはしますが、それは日々をどのように過ごすかで変化するのです。

数学は役に立たないという意見があります。
Σや三角関数微分積分を普段の生活でどこで使うのかということはすごく難しいことです。
しかし、簡単な因数分解などにおいてはスポーツへ思考として利用することができるのです。

野球でバッティングをするとして、処理モデルへ利用します。

数学では因数分解により
AX+BX+CX=X(A+B+C)
という式が成り立ちます。

 

では野球で考えてみます。

例えばバッティングにおいて、練習A(タイミング),練習B(スウィングの強化),練習C(実戦と練習での実行との差異)があります。
それぞれ目的がありますが、バッテイングの基本動作があり成り立ちます。
バッテイングの基本動作をXとしてA・B・Cの目的がくくられます。
練習の説明をする時に、共通の前提を説明することであとは説明を省くことができます。
チームで強化して変えてはならない部分(バントの構えなど)とプレイヤー個人が自由にできる部分でもこの思考レベルの差は存在しています。

 

これまでのことからするとただこなすのであれば役だたないということになります。
漠然と学歴のために勉強をこなすだけの作業を行うという意識をしているのであれば役立たなくなるのは当然かもしれません。

 

もちろん役立たないという部分も必ず存在します。

役立たない主張において感情でそれを役立たないということがストレスの発散で調和が取れるのであれば問題はないと考えます。
(ただし他者に危害が加わるのであれば配慮が必要。)

しかし、それが意識付いて役立たないというものだけを探す習慣になるのことは問題でバランスをとる必要があります。
重要なのは、目的から優先順位と必要性の基準を明確にして判断し、それを実行していくことかもしれません。

スポーツでの処理機能を練習で鍛錬することで形成し、無意識で実行していくことが目的であるならば逆に意識から無意識にする部分を把握しておくことが必要でしょう。
習慣と意識によって自分自身の処理能力が変化していきます。
自身の無意識は思った以上に意識を凌駕する時があります。

努力によって才能を凌駕する物語は、希望を抱くことができ、人の生き方を魅力的にします。
しかしながら現実は、いかに目的のために意識づけすることが重要だと把握していてもこなすだけの練習になりがちです。
それに対して微弱ながら、記録し未来へ託すことがわずかに見えることでも大きな発展と捉えることができます。


もちろん楽しむことが目的であれば、これまでの内容は必要ありません。
どんなことにもデメリットメリットがあるように改善にすらタイミングよってはデメリットになりえます。
一度解決した問題に対して再度考慮することは感情としても難しいでしょう。

意識しすぎでイップスになることもあるので、「意識する」ことにすら使いどころがあるのでしょう。